「礼拝説教」カテゴリーアーカイブ

2021年8月8日「父は子を愛し、復活させて命を与える」 磯部理一郎 牧師

ヨハネによる福音書講解説教10

説教 「父は子を愛し、復活させて命を与える」

聖書 ダニエル書12章1~13節

ヨハネによる福音書5章9~30節

 

聖書 ヨハネによる福音書5章9~18節

5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。 5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない。」 5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われ2021.8.8 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第12主日礼拝

たのです」と答えた。 5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。 5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めたイエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。 5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられるだからわたしも働くのだ。」 5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで御自身を神と等しい者とされたからである。

 

5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は父のなさること見なければ自分からは何事もできない父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない

 

5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく死から命へと移っている。5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

 

5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 

はじめに

先週の説教では「床を担いで歩きなさい」という題で、癒しの奇跡について、お話いたしました。もう少し正確にいえば、神は、主イエスとそのみことばの働きを通して、この38年もの間、動くことの出来ななかった人物の中で、働き動き始めました。この人物は、絶望と不信の淵に捨てられていましたが、「よくなりたいか」という主のみことばの力により、その深い魂の根源から、初めて真摯に神に心を向け直します。それによって、この病の人は、神の真理を深く見つめて自ら考え、真理を正しく認識する精神を求め始めたようです。そしてついに、神は、キリストを通して「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という神の創造的な命令形とも言うべき神のみことばを通して、救い主なる神は、この人の肉体の奥深く隅々に至るまで働き、動き始めました。その結果「5:9 するとその人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」という新しい人間主体として生まれ変わり、神の応答を即座に開始したのでした。天の神は、主イエスとそのみことばにおいてついに地上に働く神として動き出したのです。人々の信仰について言えば、ただ単に天上におわす神について信じるのではなくて、その天上の神がついに主イエスにおいて地上に降って来て、人類の歴史そのものに介入し、私たちひとりひとりの人生の内に働き始めたのです。神はいるのかいないのか、ではなくて、実際に民の中でそして自分自身の中で生き生きと力強く動き始めている体験を重ねている、共に生きているのです。これが福音の信仰のリアリティーです。この地上の不条理の中で、胸を痛める度に、わたくし自身の中にも、天上の神が地上の歴史に介入してくださるのだろうか、とよく若い頃は疑問に思うことがありました。今すぐにこの地上にご介入下さって、公正なお裁きを行ってください、と祈ることもありました。天上の神さまは、このわたくしたちの苦悩する地上に対して、果たしてどのように関わってくださっておられるのるのか、問い続ける日々もございました。しかし、キリスト教の福音の本質とは、まさに地上のただ中に、苦悩と痛みのただ中に、深く介入し働き、みわざを行う神であります。その神の真実の姿が、まさにこの人物の中に示された瞬間でありました。

前回の説教では、神はまさに地上に舞い降りて来て、神のみわざを行われ、38年も病気に苦しんでいた人が起き上がり、新しい人生を歩み始める、そういう救いのみわざを行った、という話でした。しかしこの癒しの事件が、あろうことか、ユダヤ人たちとイエスさまとの間で、抜き差しならない深刻な論争となってしまったのです。本日は、この深刻な対立の背景に潜む、信仰の根本問題について、すなわち律法主義社会と信仰の本質について、お話したいと存じます。

 

安息日の癒し

先ず、論争を引き起こした問題の所在は、言うまでもなく、主イエスの律法違反です。しかもとりわけ重大な安息日規定の違反でした。「その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった」(9節)「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない。」(10節)と聖書は記しています。安息日とは、ヘブライ語で「シャッバース」、ギリシャ語では「サバトン」と言い、「やめる・休む」という意味です。神さまは天地創造のわざを6日で終えたので、7日目に休まれ、この日を「聖」と宣言して特別に区別されました(創世記1章~2章)。後に「十戒」の第4戒として安息日が規定され、生産労働活動や治療行為はすべて禁止されました。主イエスの癒しが、安息日の治療行為を禁止した律法違反だとするのが、ユダヤ人たちの主張です。確かに主イエスの律法違反が論争の発端ではありますが、実は真相を注意深く見ると、事態ははるかに深刻です。主イエスの行動は、律法に依存するユダヤ教社会そのものを根底からひっくりかえしてしまうからです。換言すれば、律法違反どころか、律法それ自体を根底から覆してしまう行為だからです。神に祝福された関係、神との平和で幸いな関係を、聖書では「神の義」と言いますが、この「神の義」を、律法を守り抜くことで獲得するのか、それとも、律法の道筋から外れて律法とは別に、神の愛と罪の赦しを戴くことで、「神の義」を獲得するのか、という救い方、救われ方が問題になって来るからです。つまり、主イエスは、これまでとは全く異なる、誰も考えられなかった新しい救いを行われたのです。言わば、神の愛と恵みによる救いです。律法を守り抜くことで、神の義を獲得しようとする律法主義に対して、ただ新しい神のご恩寵のみにすがって、神の義にあずかろうとする福音の道をゆこうとするのか、全く異なる救いの道が啓示されたのです。したがいまして、主イエスの福音による新しい救いの道を知るうえで、ユダヤの律法主義社会の本質を事前に整理、確認しておきたいと思います。

 

ユダヤ律法社会の苦悩と破綻

簡潔にイスラエルの歴史に触れますと、凡そ紀元前1000年にダビデ王がイスラエルを統一し歴史上初めて統一王国を建国しました。このイスラエル建国は、その250年ほど前のモーセにおいて、さらに遡りますと、紀元前1800年ほど前のアブラハムの時代から、すでに「神さまの先行する選びと恵み」によって、民は導かれて来ました。出エジプトの際に、アロンのもとで民が金の牛を拝んでも、それでも神は新たに後継者としてヨシュアを立て、ついにダビデを立てて民の願いをかなえ、イスラエル建国を実現しました。しかしその後、王国が分裂・滅亡して、バビロン捕囚という辛酸を経験します。しかし新興国ペルシャが興ると、キュロス王の命によりエルサレム帰還が許され、紀元前前520年頃には、エズラ・ネヘミヤを指導者とするユダヤの民は、第二神殿の再建と「律法」文書の再編を果たします。その神殿再建と律法再編にあたり、ユダヤの民の心を決定的に支配したことは、エルサレム再建をめざしたのですが、当然ながら、再建の原点となったのは、イスラエル滅亡を導いた原因はどこにあったのか、という非常に深い反省でした。民は神との契約に違反し、神に背き、罪を犯したことによる、と厳しく反省したのです。の裁きを受けるような跌を二度と神踏まないようにする、という強い決意のもとに、エルサレム神殿は再建され、律法は再編纂されたのです。より堅固で確かな再建は、より堅固で確かな「律法」体系とそれを監視する律法社会を構築することでした。こうして後期ユダヤ教社会は、固く律法主義に立つことで、神の背きを防止して、神の裁きを免れることを深く学んだと言えましょう。誤解を恐れずに言えば、元来「神の先行する選びと恵み」を中心としたはずの恵みによる信仰が、イスラエル滅亡とバビロン捕囚以降から、「神の裁きと審判」を回避することを中心とする律法主義に変質してしまったのです。信仰の本質は愛と恵みの喜び感謝から、裁きと恐れの律法遵守へと大きく転換したのでした。つまりダビデまでのユダヤの宗教と、後にエズラなどが再建した捕囚以降の律法宗教とは、神の信仰において本質的に異なるものとして、はっきりと区別できるのではないか、と思います。このようにバビロン捕囚を経験したエズラ・ネヘミヤ以降のユダヤ教は、民の罪ゆえに、神に裁かれ滅んだのだから、罪を犯さないための完全な律法社会つくるのだ、という考え方です。こうしてユダヤの神概念は「選びと恵みの神」から「審判の神」へと、本質的に変容してしまいます。神のみこころを取り戻し神にお喜び戴くためには、熱心に律法を遵守する以外にほかに道はない、と考えたのです。その結果、厳格な律法体系によって、ユダヤ民族全体を徹底管理する律法社会のシステムをつくりあげたのです。神に喜ばれ神のみこころを取り戻すためには、より厳しい律法社会をつくりあげ、神に嫌われてしまわないためにはより厳しい罰によって厳格に裁きあう罪人をつくり罪人を排除する社会へと変貌していったのです。姦淫の女は、皆で石で打ち殺すという話が聖書に登場しますが、まさにそうした律法社会が構築されてしまったのです。

一見、こうした取り組みは「信心深い」と評価されがちですが、反面、そこには大きな「落とし穴」が二つあります。神に喜ばれ優れた良い神の民になる、そのためには律法を強化する、という考え方それ自体は論理的には正しいのですが、しかし、そこには不完全で弱い人間の本質を見落とされています。その結果、「愛」や「憐れみ」の心は、背後に退いてしまうのです。イエスさまは、民衆に、律法の本質は、神を愛すること、隣人を愛することである、と言って、心の内側から無限に湧き出すような愛と憐れみによって、神の民は導かれ神の国はつくられることをお教えになられましたが、当時の律法学者や祭司たちは皆、神を愛することを忘れ恐れて、罪を誤魔化すようになり、いよいよ動物による贖罪の犠牲は増えてゆくことになります。人間の弱さを深く見つめず、罪の根源的な支配を見失った結果、律法を強化しますが、皮肉にも、実は律法に破綻し敗北することになり、最終的には「絶望」もしくは「偽善」を生み出すことになります。魂の「絶望」は直ちに魂の「死」を意味します。皆さまも、より立派なことをしようとすればするほど、できない自分、破れ果ててゆく自分と向き合わねばならなくなる、という経験をなさったことがあるのではないでしょうか。もう一つの落とし穴は、できなかったという破れと破綻の裏腹で、必ずできたとする「虚偽と偽善」が生まれます。非常に皮肉なことですが、表側で神にお喜び戴くために律法を強化すればするほど、裏側では絶望と偽善を無限に生み出してしまう、という律法主義社会の悪循環が構造化されてしまうのです。加えて、「絶望」の魂は、神は未だに沈黙のまま苦しむ者にお答えくださらない、という餓え乾きを増幅してしまいます。。

ユダヤ人たちは、主イエスの癒しを「律法違反」として、糾弾します。分けて最も深刻な「安息日規定」違反として徹底的に主イエスを憎悪しついに殺害を決意します。しかしその憎悪と糾弾の背後で、絶望と破綻の呻き、虚偽と偽善の裏切りでユダヤ全土はあふれていたことも、また否めない事実でありました。どうにもならないほどに、ユダヤ教の律法社会は絶望と偽善で行き詰まり破綻していたのです。だからこそ主イエスに従おうとする人々がどこに行っても溢れるようにいたのです。律法を利用することで支配権を得ていた律法学者はこうした主イエスを非常に恐れるようになります。38年も病気で苦しんでいた人が、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と訴えたのは、まさにユダヤ社会そのものを暗示しています。神のもとに祝福を得たいと願いつつも、そこに至る道は完全に断たれてしまっていて、だれも神のもとに行くことができないのです。主イエスはこれに応えて、ついに安息日規定を超えて、この人に命のみことばを与えたのです。そしてこの人は生ける神のみことばに全幅の信頼を置いて応答したのです。主イエスとの人格を尽くした神聖な魂の対話の中から、新しい命と創造のみことばを聞き取り、みことばを信頼して応答し、神と共に行動した者には、鮮やかすぎるほど鮮やかな、神の新しい福音の事実であることは明白であります。そこには今まで表に現れていなかった神の現実があらわになります。なんと神はすでに動いておられる、という新しい神の福音の事実の発見でありました。律法主義社会の絶望的な行き詰まりの中で、神はついに律法を超えて、動きだされたのでした。律法による神信仰から、神の福音による救いの信仰へと、信仰の本質が転換した瞬間です。しかし問題は、そうした神の新しい愛の啓示が、ユダヤ人の眼には許し難い律法違反としか見えませんでした。律法を超えて愛に動き出した神に対して、絶望と偽善を生み続ける律法に依存するユダヤ人の現実は、ついに主イエスを排除抹殺してしまうのですが、その抹殺の道具に利用した十字架さえも、律法を超える神の愛のわざでありました。

 

秘められた神の真実の告知

主イエスは正面から告げます。「わたしの父は今もなお働いておられるだからわたしも働くのだ」。 ここで主イエスは秘められた神の真実を二つ啓示し告知します。一つは、父なる神が今もなお働いておられること。神は沈黙したまま、お答えにならないのではなく、世界の中心で今まさに働いておられる、という神の真実を告げます。加えて、その神の働きの中心に、父と共に子である主イエスもまた、今まさに働いておられる、というもう一つの神の真実が告げられます。すなわち、神の力強い行動の中心に、主イエス・キリストという神の子であり仲保者の派遣があることを宣言したのです。「神を御自分の父と呼んで御自身を神と等しい者とされた」とありますが、神の啓示の新たな展開です。すなわち神は、ご自身の独り子であるキリストを地上に派遣して、神の愛と憐れみの十字架により、律法を超えて新しい命と希望を与える、という新しい行動を起こし、歴史に介入されたのです。こうして、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊の降臨へと、神の新しい啓示は展開してゆきます。これこそが、地上にくだる神の行動だったのです。

わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知ったそれゆえわたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る(出エジプト記3章7節以下)と前回ご紹介したとおりです。しかし今なお、イスラエルの民の苦しみ痛みが続いているではないか。世界の苦悩とその叫びはいよいよ響き渡っているのではないか。神はいったい世界の何を、歴史の何を完成したのでしょうか。何一つ、完成などしていない。完成どころか、いよいよ貧しく弱い人々は、苦しみ悶えているではないか。とすれば、神は今こそ動き、働くべき時であります。主イエスは、はっきりと「わたしの父は今もなお働いておられるだからわたしも働くのだ」と宣言されます。父が地上に降り、共に動き、働いておられるのだから、だからこそ、わたしも人格のすべてを尽くして、福音のために働くのだ、と仰せになるのです。主イエス・キリストは、父と共に働く。言い換えますと、父なる神は、イエス・キリストにおいて、絶大な救いの行動を起こしたのです。イエス・キリストの受肉において、父なる神もまた地上に舞い降り、歴史の奥深くに突入し、イエス・キリストにおいて、律法を完全に果たすと共に人類の罪の裁きを引き受け、イエス・キリストにおいて復活という新しい人間性をお示しになられたのです。

 

2021年8月1日「起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい」磯部理一郎 牧師

 

  1. 8. 1 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第11主日礼拝

よはねによる福音書講解説教9

説教「起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい」

聖書 イザヤ書43章1~7節

ヨハネによる福音書5章1~9節

 

 

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。

5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい床を担いで歩きなさい。」5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。

その日は安息日であった。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。

5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 

 

はじめに

本日の聖書、ヨハネによる福音書5章Ⅰ~18節は、前後二つの段落から構成されています。前半は、ベトザタ(別の写本では「ベテスダ」:憐み)の池で、38年間も病気に苦しんでいた人が、安息日に主イエスによって癒される、という奇跡(癒し)の出来事の記述です。後半は、そのイエスによる癒しが安息日に行われたことで、ユダヤ人たちは安息日規定の違反であるとして、イエスを糾弾したため、非常に激しい神学論争となって展開し、主イエスはついに、「父なる神」と共に働く「子なる神」であることを自ら告げる、という展開です。

 

1.背景

本日の説教の中核となるメッセージに入る前に、この癒しの出来事の背景、または周辺の状況につきまして、事前に簡潔に確認をしておきたいと存じます。

先ず、事件の発端となる背景ですが、季節は「ユダヤ人の祭り」の最中で、ユダヤ人の成人男性は皆、年に3回、3~4月過越の祭り、5~6月五旬祭、そして9~10月仮庵の祭りと、それぞれにエルサレム神殿に詣でることになっていました。この時は「五旬祭」(ペンテコステ)にあたり、労働をしないで、聖なる神の前に出る(レビ23:21)ために、エルサレム神殿は多くの人々でごった返していたようです。その途中、主イエスは、羊の門の傍らにあるベトザタの池で、38年も病気で苦しんでいる人を見て、お癒しになったのですが、その日は、安息日であったため、ユダヤ人たちと大論争になり、ついにユダヤ人は主イエスを殺そうとまで考えるようになる、という話です。

さて、今日のお話の舞台となる「ベトザタ」と呼ばれる池ですが、直訳すると「流れの家」で、複数形での表現になっています。考古学的発掘調査から、これは縦が約120メール、横が50メートルと60メールの二つの池に仕切られており、四隅と中央に、合わせて5つの回廊があったことが確認されています。複数形の表記は、二つの流れの池ということになります。当時一般民衆からは「あわれみ(ベテスダ)の家」とも呼ばれていたようです。後の記述によれば、この水の流れは、赤みを帯びた湧水の鉱泉で、一定の治癒力が期待されていたようです。近くにはローマ軍の駐屯地があり、傷病兵も療養ためにこの池に通っていたようです。聖書の記述通り、癒しを求める多くの人々であふれかえっていたことは想像に難くないところです。

その池で水が動き波立つ時を、傷病者たちはみな、固唾をのんで待ち構えていました。主の使いがときどき池に降りて来ると水が動き、その時、真っ先に池に入った者はどんな病気でも癒される、と信じられていたからです。今日のお話の中心となる人物は「38年も病気に苦しんでいる人」で、この人もまた、天使が水に舞い降りるその時を、38年の生涯を尽くして待ち続けていました。記述からすれば、おそらく生まれながらの脳障害のためか、全身が完全に麻痺していた、と推測されます。ただ、注意したいのは、この38年という数字をそのまま文字通り38年と読むこともできますが、実は、3、8、12という数字は、ユダヤでは完全数とか絶対数と呼ばれる象徴的な数字で、数値以上の意味を持ちます。つまり病気のこの人物の現実は完全な絶望状態にある、ということを暗示しています。もはや治癒する見込みは全くなく、人生そのものの意味も希望も完全に失われていたことになります。加えて具体的な名前や出身地などの記述がありませんので、その人「個人」として読むこともできますが、同時にある「一定の集団」を暗示しており、この集団とは、完全にユダヤ社会から排除され捨てられてしまった、絶望的境遇にある集団とも解釈できます。聖書の記述はそれに次いで「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」(5:2)とありますように、ユダヤ社会から排除され捨てられて、「絶望」の中に、放置され捨てられた集団と密接に関連付けられて、この癒しの出来事は、描かれたようです。つまり「38年も病気で苦しんでいる人」とは、絶望の中で、苦悩する「ひとり」「ひとり」の人格を指すと共に、社会から排除され捨てられた、いわゆる「罪人」の集団全体を象徴的に代表する集合的人格でもあった、と考えられます。こうした集団が、のちに主イエスに従ってゆく弟子たちの群れ、教会となる背景にあった、と考える学者も少なくありません。あるいは、五つの回廊で犇めき合う絶望的な傷病者たちとは、「モーセ五書」という律法のもとに、苦悩し続けるユダヤ民族全体を暗示する、とも考えられます。癒しは、単に病気を治したという奇跡ではなく、ユダヤの民を律法の苦悩から解放する、また捨てられた人々の回復をも意味する出来事でありました。

 

2.主イエスのまなざし

着目したい最初の大切な点は、「主イエスの眼差しと向けられる御心」です。主の眼差しは、「どこ」に向かって、注がれていたのでしょうか。殆どすべての福音書の記事に共通するこの描き方は、主イエスのまなざしは、最初から先行して、何かに注がれていた、ということです。本日登場する人物のように、社会から排除され捨てられて、絶望の中で苦悩する人々の群れに、集中的に注がれます。「5:6 イエスは、その人が横たわっているのを、また、もう長い間病気であるのを知って」とありますように、主イエスは、偶然この人と出会ったのではなく、またこの人に呼び止められたわけでもなく、主イエスのまなざしは、最初からずっと、他の誰よりも先行して、「絶望」の中に、捨てられた惨めな人々の思いに注がれており、そればかりか、この人物の痛み苦しみを見通しておられ、その苦悩のすべてを知っておられた、と言えます。原典の「見た」という動詞にはとても広い意味があり、「どのような事情なのかがわかる」「どうなるかその行く末を見守る」という意味で、用いられます。また「知った」とは、ヘブライ語まで遡るますと、「肉体的に知る」ことを意味しますので、その苦悩を心と身体の両面で感じ取る、という意味になります。まさに痛みと苦悩を、主イエスは、キリストの心と身体において、共に感じ共に体験し、知り、理解していた、ということを意味します。つまりイエスさまの方から、既に先に先行して、ご自身の心と身体において、すなわち人間としての根源から、この人の痛みを心身共に共有しておられた、ということになります。その意味からすれば、正しい99匹を残して、迷い出たたった一匹の羊を必死で探し求める、あの主イエスのまなざしと全く同一同質のまなざしだ、と言ってもよいかもしれません。神さまのまなざしは最初から、徹頭徹尾、一匹の捨てられた羊に向けられていました。捨てられたて一人ぽっちの苦悩を嘆くその前に、既に神さまは先行して共有共感しておられたのです。神はすべての痛みと苦悩を心身共に共感し共有されるのです。

少し極論になりますが、キリスト教の意味深い所とは実は、捨てられてしまった自分を苦悩し知る所から、始まるのではないでしょうか。ああ、社会からみんなから捨てられてしまった、誰も自分のことを理解してくれない、誰も目を向けてくれない、独りぼっちだ、この一匹という孤独と孤立から、福音の第一歩は始まります。積極的に言えば、徹底して捨てられた一匹という場に放置された時、その時初めて、神と向き合う一歩が始まります。正しい99匹の集団の中に身をおいたままでは、もしかしたら、本当の福音に出会えないかも知れません。反対に、38年間も孤立する孤独の中で、この人は、その捨てられた苦悩を、いつも神さまに見つめられ見守られ、ついに創造的で新しい人生と出会う場となったのです。私たちも、人生の躓きの中で捨てられた一匹の意味を深く知り、そこで初めて神のご人格と愛に触れることができるのです。

 

3.「問いかけ」

そこで、いよいよ出会い、対話がはじまります。ふたりの人格と尊厳を尽くした対話です。まず、イエスさまの方から「良くなりたいか」と尋ねると、この人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と、呻くようにその苦悩を主イエスに訴えます。ユダヤ3大祭りに賑わう中でさえも、だれひとりとして、彼のもとに来て手を差し伸べる者はいなかったのです。ことばさえかけてくれる者もいませんでした。主が見て知り、ことばをかけて下さる所から、この二人の対話は始まりました。初めて自分に、主イエスの方から、おことばをかけてくれた、それも「よくなりたいか」と、一番問題にして欲しかった思いの中心に問いかけます。とても嬉しかった、と思います。「よくなる」とは、単に身体的な病気が治る、ということだけでなく、この人を病気にして人格そのものを傷つけ苦しめて来た、さまざまな邪悪と支配から解放されることを意味します。根源的には、人類を存在の根本から蝕む悪霊支配からの解放であり、罪の堕落によって生じた深い病いの解決です。人間社会のもつ冷酷で偽善的な権力支配からの解放でもあります。したがって、さまざまに人間の霊的尊厳を傷つけ痛め続ける構造的な罪の支配から、人格が完全に解放されることを意味します。池に天使が舞い降りると水が動き癒される、それはまさに、神の平安と解放に導かれることでした。しかしこの人には、自分を導いてくれる人はひとりもいないのです。主イエスは、捨てられ放置され絶望と呻きにあるこの人を、暖かな眼差しで包み込むと、この人の魂の中心に向かってことばをかけ、単刀直入に「よくなりたいのか」と問題の本質を問いかけます。

 

4.「魂の究明」

この人格と尊厳をつくした、ふたりの魂の対話は、問いかけと応答によって、さらに新しい次元へと展開します。主イエスの「よくなりたいか」と問う問いかけは、とても重要です。なぜなら、この人の「応答」を引き起こしたからです。「よくなりたいか」という問いかけは、この人の魂の奥深くを駆け巡り、さまざまな作用を引き起こし始めます。みことばによる魂の究明です。この人の魂は38年間ずっと毎日のように裏切られ続けてきたため、よくなりたいという期待よりも「疑い」や「不信」が、望みよりも「失望」と「絶望」が、そして何よりも、捨てられたという「憎悪」と「復讐心」が支配していたはずです。虐げられた魂が、希望と信頼を失うと、憎悪と復讐心に変質し、そうした闇によって支配されてしまうのです。人々に対する絶望と憎悪の思いが、「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」と訴える、彼のことばに表れています。真っ直ぐで純粋な答えというよりは、深く病んだ魂の現実が見え隠れします。しかし、主イエスの「問いかけ」は、その霊的な力によって、この人の魂の奥深くを駆け巡り、死んでいた人格と命の尊厳を覚醒させます。この人は、主の問いかけと共に、病んだ思いの一つ一つについて、丁寧に検証し、対話し、確認し始めたのです。これが神のみことばの持つ力であり、魂の真実を極める究明のみわざです。まさに、わたくしどもが、祈るという行為の中で、魂の深みにおいて行う神との対話そのものです。聖書研究祈祷会と言って、日本の教会では古くから大切にされて来た集会の本質と同じです。聖書を研究して、神のみことばを戴き、その神のみことばの光に照らされて、病んだ罪の心と癒された霊の心の真実を見極めていく作業です。

 

5.「命令」と「応答」

この尊厳をつくした問答は、いよいよ厳粛かつ神聖な対話となって深められます。主イエスはついに「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と、愛と創造力にあふれたみことばを発します。その時ついに、神はこの地上で、そしてこの人の魂のただ中で、現実に生き生きと力強く動き始めたのです。するとこの人は、主の力あるみことばに全幅の信頼をおいて、応答します。聖書は「5:9 すると、その人はすぐに良くなって床を担いで歩きだした」と記しています。聖書が語るように「すると」ですが、つまり主イエスに問いかけられているその過程で、魂の検証が進められた結果、この人にある大きな「方向転換」が引き起こされていた、と考えられます。「悔い改め」です。主イエスの創造的で力あるみことばは、この人の魂を揺り動かして、その奥深くで力強く動きはじめ、彼の魂に決定的な方向転換を引き起こしていました。この人は、主の問いかけの力により、死んでいた人格と尊厳に目覚め、魂の根底で諦めから期待へ、絶望から希望へ、疑いから信頼へ、と自らの意志で求め始めていました。ある意味で、罪から解放され、自立し自決する魂を得た、とも言えましょう。その方向転換を果たした魂に対して、主イエスは間髪を入れずに「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と、お命じになります。そしてついにこの人の魂の応答は、ここから開始されます。このお方の、力あるみことばと共に、諦めではなく未来に期待をしてみよう、主が働かれていることを信じ、主のみ力と共にわたしも働きたい、世の人にすがり求めるのではなく、神と共に自分の意志で力強く立ち上がるのだ、という魂の応答です。そうです、このみことばと共に、今働く神と共に自分も起き上がるのだ、であります。病んだ絶望的な魂が蘇生した瞬間でした。こうしてついに、死んでいた者が根源的に新生して復活したように、良くなって、床を担ぎ歩き出したのです。この人の新しい人生の始まりでした。

 

6.その時、神は地上に降り動いた

この二人の尊厳を尽くした対話から、神はついにこの地上で、全能の力を尽くして動き始めます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知った。3:8 それゆえわたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」(出エジプト記3章7節以下)とありますように、神は地上に力強く介入し、行動する神でありました。その時、神は降り動き始めたのです。ついに、神は地上の神として、この人と共動き、この人の中で働き始めたのです。同時にこの人もまた、人格の尊厳を尽くして、神と共に動き、働き始めたのです。主イエスは自ら宣言されます。「わたしの父は今もなお働いておられるだからわたしも働くのだ。」(5:17)。ついに、神は地上で痛み苦しむ者のもとに降り、動き出したのです。しかも新しい神の啓示という誰も想定しなかった形で、父と共に働く子なる神キリストとして、地上に降り、動き始めたのです。

 

結語

今日の話は決して特別な話ではありません。と申しますのは、私たち自身こそ、この38年も病気に苦しんできた者そのものだからです。なぜなら、どのような苦悩の中にあっても、私たちは日々人格と尊厳を尽くして、神さまと力あるみことばによって、魂の対話を経験しているからです。その力ある神のみことばによって、この地上で動き働く神と一つになって、永遠の命の希望へと解放され、今まさに命の尊厳を尽くして永遠の命に生きようとしている者だからです。私たちは、神を知らずに、神なしには、生きる者ではありません。私たちは、常に神の力あるみことばと共に、日々動き働く神と共に、今日を生きる者だからです。

 

2021年7月25日「あなたの息子は生き返る」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 7.25 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第10主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教8

説教「あなたの息子は生き返る」

聖書 ダニエル書3章19~25節

ヨハネによる福音書4章43~54節

 

 

4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。

さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 

 

はじめに. サマリア伝道の成功を受けてガリラヤへ

主イエスは、最も憎悪の深いサマリア人の宣教に、成功しました。ヨハネは4章39節以下で「4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によってイエスを信じた。4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。4:41 そして、更に多くの人々がイエスの言葉を聞いて信じた。4:42 彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方が本当に世の救い主である分かったからです。』」と記して、サマリア伝道の成功を総括しています。このサマリア伝道の総括句には、非常に意味深い「ヨハネの神学」が表されているように思われます。その典型は42節の言葉で「4:42 彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方が本当に世の救い主である分かったからです。』」と、はっきり言い表して、信仰の根拠と内容を表明しています。サマリアの人々の信仰は、どのようにして形成されたのか、信仰形成の本質を明確に伝える証言でもあります。それは、人々が自分自身で、主イエスの語られたみことばの中に、メシアが今ここに自分の前に到来し自分の救いのために現臨しておられる、という体験の中で、ついにメシアの確信に至った、という信仰告白であります。またみことばを通して、実際のメシアと出会い、新しく生まれ変わる、という霊的経験でもあります。言い換えれば、啓示者としてみことばを語る主イエスのうちに、自分のもとに到来して生き生きと働き現臨するメシアを発見し、またメシアの人格と深く出会い、まさに主イエスにおけるメシアの到来と現臨は真実である、という真理認識に至り、きちんとみことばを理解することができたのです。もはや他者であるサマリアの女の証言に依存して、間接的にメシアを知るのではなくて、自分自身の魂で直にメシアの人格と触れ、出会い、しかもみことばにおいて霊的な対話を交わすうちに、メシアの到来が真実であることを理解するに至っていたのでした。これこそ、サマリア伝道を成功とするヨハネの総括の神学的特徴である、と言えます。わたくしどもが、福音を宣教する証言者となるには、先ず自分自身の魂において直にキリストに触れ、確かにキリストと出会い救われた、という霊的な信仰体験を持つことが必要です。自分の体験が曖昧で揺らいでしまえば、福音書の証言も揺らぎ、結局、宣教はできないのです。教会の宣教力が失われる背景には、わたくしどもひとりひとりの、自分のうちに、確かに現臨して働き給うキリストの体験が失われるか、曖昧希薄になっているからでもあります。サマリアの人々は、自分で聞いて、メシアの真理を自分の決定的な出来事として体験して、明らかな確信に至っていたのです。それが、ヨハネの伝えようとする伝道の本質であります。

かつて、主イエスは、ユダヤの教師であるニコデモに、「3:5はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ3:5~6)と説いて諭しました。ただ肉として主イエスを受け入れるのではなくて、霊のお方としても、正しく認め受け入れる、ということが、あなたにとってどこまで可能かどうか、ということになります。神の御子であり、受肉した先在の神のロゴスであり、かつ父から遣わされた人の子として、主イエスを正しく認めて受け入れるということは、物理的にこの世の理性や論理の枠組みを遥かに超えた事象であり、この世の思考の限界を打ち破ってこそ、初めて可能となる出来事です。信仰の課題がここにあります。この世の論理の枠組みをいかにして超えて、いかにして神を知るようになるか、であります。なぜなら、信仰の対象、認識の対象が、超越の神であるからです。無論、世の常識で考えれば、主イエスの語るみことばにおいて、メシアが現臨して、そのメシアと人格的に深く出会うなどということはあり得ないことだ、と多くの人は思うでありましょう。したがって、ここはどうしても水と霊とによって新たに上から生まれなければ、肉は肉のままで終わり、霊の本質に生きることはできないのです。サマリアの人々は、明らかに主の霊とことばとによって、上から助けられつつ、主のみことばを霊に導かれて、みことばを正しく聴き分けることで、見事に肉から霊の本質に生まれ変わって生きる、ということにおいて、すでにこの世を越えて新しい世界に生きようとしていたと考えられます。

 

1.故郷ガリラヤで

さて、主イエスは、サマリアに二日間滞在されてから、「4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」とあります。ついに主イエスは、故郷のガリラヤに、お帰りになりました。ヨハネは、主イエスのガリラヤ帰還について、「4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。」と記しています。ガリラヤの人々は、主イエスを「歓迎した」と伝えています。主イエスのユダヤ宣教が、ファリサイ派の宗教権威を圧倒するほど、しかしその結果ファリサイ派を嫉妬させてしまうほど、民衆の大きな反響を見ていた人々がガリラヤに大勢もいたようです。しかし主イエスは、ご自身のお心の中では「預言者は自分の故郷では敬われない」と思っておられたようです。これは、確かにガリラヤの人々は主イエスを歓迎したのですが、その歓迎の意味、何をもって主イエスを歓迎したか、人々の心を主イエスはすでに見抜いておられたからではないでしょうか。サマリアの人々と比較すれば、サマリア伝道の成功の本質は「4:42わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方本当に世の救い主である分かったからです。」とはっきり自分の信仰を表明していました。反対に、ガリラヤの人々が主イエスを歓迎したのは、主イエスの中にメシアそのものを認めて、信じ受け入れていたからではなく、実はエルサレムで数々の「しるし」を見たからに過ぎなかったのです。後にも主イエスご自身も言われているように、「4:48あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と、見ておられました。つまり「奇跡」を引き起こし「不思議な業」を行うことのできる「力」を求め、その「力」を崇拝していたのです。やがてこの「力」崇拝は、メシアについての理解に、大きく影響を及ぼします。この世での「力」崇拝は、この世での政治や宗教の「権力崇拝」や「権力欲求」をかなえる英雄のメシア理解となり、メシアに対する理解を歪めて、根本から「神」のメシアを「この世」のメシアに変質させてしまうことになります。確かに主イエスは、神の御子ですから、絶大かつ超絶的「力」をお持ちであることは間違いないのですが、主イエスが求められた信仰は、「力」を崇拝することではなくて、十字架の死に至るまで従順に贖罪の死を遂げる「メシア」を受け入れる信仰であり、この人類の贖罪のために、メシアは父から遣わされた御子である、ということを認める信仰でした。なぜなら、神は「力」あるお方であると共に、人類を愛し、その愛のために、人々を死と滅びから救うために、かけがえのない神の独り子を「贖罪の犠牲」としてお与えになるお方でありました。神の全能の力とご意志はすべて、人類の愛と救済に注がれたのです。人々のこのひたむきで純粋な愛と憐れみの中に、本当の意味での「神の力」を見出すべきであります。神が世にお与えになられた救い主であるメシアとして、その本当のお姿を認め、正しく知ることを求めておられたのではないか、と思われます。

 

2.王宮の役人の嘆願(カファルナウムからカナへ)

そうしたカナの主イエスのもとに、カファルナウムから王宮の役人が訪ねて来ます。「さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」とヨハネは記します。「王の役人」(basiliko.j)とは、後に洗礼者ヨハネを斬首したヘロデ・アンティパスの王宮でヘロデ王に仕える高官であった、とそのギリシャ語の用語から推測されます。さらにいくつかの重要な点がこの記述から分かります。まずヘロデ王に仕える高官という立場です。主イエスは洗礼者ヨハネと同じように「洗礼」を授けて宣教活動をしており、ファリサイ派や祭司たちからは敵視され、彼らとの紛争を避けるためにガリラヤに退かれていました。洗礼者ヨハネもこの後、ヘロデ王を激しく非難し悔い改めを迫ったため、斬首されます。それゆえヘロデもユダヤの宗教的特権階級も、双方の政治的利害から、共に結託し合う関係にありました。加えてアンティパスの父、ヘロデ大王は、マタイによれば、メシアを地上から抹殺するために、ベツレヘムで全幼児の無差別的虐殺をしています(マタイ2:16)。ヘロデ大王はエルサレム神殿を修復し、サンヘドリンの宗教的特権階級のために活動の場を与えました。サンヘドリンは、神殿を利用して「神殿税」などを徴収し膨大な収益を懐にしていたので、これに対して、主イエスは「強盗の巣にした」と非難し、宮清めを断行したばかりです。そうした世の権力支配と神の国の到来という本質的に異なる世界の対立の中で、この「王の役人」はイエスを訪ね求め、カファルナウムから約30Kmも離れたカナまでやって来たのです。当然ながら、その行動は、王や宗教権力者たちの耳に入ることは明らかです。こうしたリスクを承知のうえで、この王宮に仕える役人は、主イエスの力を求めて、嘆願行動を起こしたのです。それは、わが子の命を救って欲しい、という父親の一途な一念からでした。

 

3.「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」

このように、息子の命の救いを懇願する王の役人に対して、主イエスは、ご自身のみことばをはっきりとそのまま、お語りになります。「4:48 イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(VEa.n mh. shmei/a kai. te,rata i;dhte( ouv mh. pisteu,shte)』と言われた。」と、実に率直に伝えています。ここで言われる「しるし」(shmei/on)、或いは「不思議な業」(te,raj)を見るとは、どういうことを指しているのでしょうか。第一に明らかなのは「神の子を見る」とか「メシアを見る」とは言っていないので、人々が求める、また人々が心を向ける信仰の対象は「メシア」や「神の御子」ではなくて、自分の願いをかなえてくれる「力」を求めており、それは誰でも何でも、場合によってたとえ悪魔であっても構わないのです。信仰は、力が示され願いが聞かれたそのあとで、即ち「しるし」や「不思議な業を見た」そのあとで信じればよい、ということになります。しかも、それは決して神の御心に従って、神の啓示の真理に心を向ける、というのではなくて、自分の欲求に支配され願望や欲求に心を奪われているに過ぎないことです。たとえば、王宮の役人も、非常に熱心に30キロも離れたカファルナウムからカナまで主イエスを訪ねるのですが、その熱心は、自分の愛する息子を助けて欲しい、という父親の願望から生まれた熱心にとどまるものです。主イエスを「メシア」として発見して信じたので、メシアを拝むために来た、という要素は全くないのです。極論すれば、神や神の御子を喜んで受け入れる熱心ではなくて、自分の欲求や自分の願望を求める熱心です。神を神とする神のための信仰ではなく、自分の欲求を主とする自分のための願望であります。であるとすれば、それは厳密に言えば、神に向かう「信仰」ではないので、人間の欲望を崇拝する背きの「不信仰」であり、結果として、どんなに深刻で熱心な嘆願であろうと、罪を深める嘆願となります。問題は、この王の役人は、息子が癒されさえすれば、良いのであって、それで果たして、神のメシアとしての主イエスのもとに魂を向けることはできるのでしょうか。そうした役人の心を主イエスは既に見抜いて、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と仰せになったと思われます。「信じる」と言う場合、問題は、何をどのように信じるのか、それが最も重要であり、根本問題となります。しかしそうした主イエスのみことばは、役人の耳には全く入らず、ただ父親としての切羽詰まった愛情と願いから、「4:49主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と懇願するばかりでありました。主イエスの求める信仰の本質は、常に主イエスにおける神のメシアを認めることであり、父なる神から遣わされた救い主を受け入れることですが、反対に人々の求める信仰とは、自分の願いや欲求を満たしてくれる「力あるわざ」でありました。

 

4.「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」とイエスの言われた言葉を信じて帰って行った

熱心に懇願する役人に対して、主イエスは「4:50 帰りなさいあなたの息子は生きる」と断言します。言わば、この主のみことばは「救いの約束」であり「保証の宣言」そのものであります。もう少し踏み込んだ表現をすれば、主イエスのみことばの中に、神の国が到来して、完全な神のご支配と救いのみわざが実現する、という真実を啓示し、言い表しています。ここでとても興味深いそして実に意味深いことは、不思議なことに「その人は、イエスの言われた言葉を信じ帰って行った(evpi,steusen o` a;nqrwpoj tw/| lo,gw| o]n ei=pen auvtw/| o` VIhsou/j kai. evporeu,eto))」と、記していることです。折角30キロかけて、カファルナウムからカナまで、わざわざ来たのに、単に「言葉を信じた」(evpi,steusen tw/| lo,gw)だけで、目に見える何の成果も得られずに、すんなりと、また30キロかけてカファルナウムに帰る帰途についてしまった、という言うのです。とても考えられない、理解を超えた行動です。ふつうであれば、主イエスを引きずってでも、無理矢理に、カファルナウムの自宅にまで主イエスを連れて行くはずですが、ただ「言葉を信じた」だけで、帰ってしまったというのです。ここをどう解釈すればよいのでしょうか。まだ息子が本当に癒されるのか、分からないまま、いわば空手で帰るようなものです。なぜ、王の役人は、主イエスの言葉だけで、帰って行くことができたのでしょうか。いったい、この人の心の中で、何が起こっていたのでしょうか。

そこで、もう一度、主イエスの言われたみことばを丁寧に見直してみますと、「あなたの息子は生きる」という元の字は「生きる」(za,w)という動詞の直接法現在形(zh)で書かれています。未来形、即ち未来のことをして言われてはいないのです。未来ではなく、「今」のこととして、すでに生起している現在の現実を告げる言葉です。日本語訳の聖書から、いつかこの部分の訳を紹介しますと、新共同訳は「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」口語訳は「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」新改訳は「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と、概ね皆、原典通りに「現在形」で訳していますが、塚本虎二訳は「かえりなさい、息子さんはなおった」、リビングバイブル日本語版は「さあ、家にお帰りなさい。 お子さんは治りました。」と、既に治癒は完了したことを強調する完了の意味で訳しています。英語聖書では、The King James (Authorized) Versionは “Go thy way; thy son liveth.”と現在形で、The New International Versionは “You may go. Your son will live.”と「未来形」で訳し、二つに分かれます。原典は、明らかな「現在形」なのに、なぜ現在形で、或いは未来形や完了形の意味を強調して訳したのか、それぞれの訳の意図を問いたい所です。興味深い所ですが、今日はここまでにして、さらに大事な点を申しますと、息子の治癒が、聖書原典では「現在形」で宣言されている、という点をどう読み、どう解釈するか、という点です。

前に、ヨハネ福音書における主イエスの福音告知の特徴として、二元論的にしかも事態を現在化させて、福音を語る、というお話をいたしました。主イエスは、神と神のみわざを現わすために、ご自身の啓示のみことばにおいて、「今」ここにおられる神の現臨を告げ、将来に来るはずの未来を「今」のこととして直面させて、真理を解き明かします。そればかりか、そうした未来のことを現在化して、聞く者に未来を現在に直面させたうえで、そのみことばを信じるか、信じないかという二元論的な選択を迫ります。未来のこととしてではなく、今ここで現在のこととして、告げられたみ言葉を真理である、と信じ受け入れる決断を迫り、この人にその信仰の告白を求めたのではないでしょうか。少なくとも、明らかなことは、この王の役人は、今、直接、主イエスと向き合い、主イエスのみことばを聴く当事者として、神のみ前に招かれていることは間違いありません。主イエスにおいて、そのみことばを通して、現臨する神の御子のみ前に招かれて立ち、直接自分で、主のみことばを聴く中で、ある決定的な出来事に、目覚めさせられたのではないでしょうか。

先ほど、サマリアでの伝道が成功したことをヨハネは総括して、42節の言葉で「4:42 彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方が本当に世の救い主である分かったからです。』」という発言を紹介しましたが、正に、この役人の中でも、全く同じ出来事が生起した、と考えられます。改めて読み直しますと、最初は「4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られた聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。」と記されていますように、明らかに、誰かの証言を聞いて、藁をも縋る思いで、カファルナウムからカナまでやって来たことが分かります。しかしそれはあくまでも間接的な伝達にすぎません。しかし今は、直接自分で、主イエスと対面する中で、主イエスにおける神の現臨に触れる中で、「4:50帰りなさい。あなたの息子は生きる」と聞いて、神のみわざを現実のこととして明らかになることを体験しているのではいでしょうか。そういう体験の中で、主イエスのみことばを聴き、その真実を知ったのではないかと思います。それは最早「4:50帰りなさい。あなたの息子は生きる(o` ui`o,j sou zh/|)」とは「未来」のことではなく、鮮やかな「現在形」のこととして、永遠不変の現在として聴き分けることが出来たのではないかと思います。この主のみことばにおいては、未来のことであろうと、すべてが現在化されているリアリティーに触れた、と言ってもよいでありましょう。ヨハネは、徹底して「今」ここに生起している、それが神のみわざなのだ、ということを「現在形」で言い表そうとしているのです。みことばに直面した者の実存体験そのものでありました。

もう一つ、聖書の原文を読み直しますと、この役人は「言葉を信じて」帰ったのですが、その「言葉を信じる」(pisteu,w)という動詞は、アオリスト形(evpi,steusen)で書かれています。二度と変更出来ない、決定的な出来事であることを示す動詞の形です。言い換えれば、時間を超えた永遠不変の真理として、この信仰体験は言い表されています。この人は、既にここに立ったので動かないという信仰の現実です。つまりこの人の中に信仰が与えられ、その信仰に固く立ち、その信仰のもとに服従し仕える決断をした、ということでしょうか。息子は生きるのは、時を超えて永遠不変の真理として、しかも今現在の出来事として迫り生起している、それを信仰において受け入れる決断をしたのです。主のみことばを、自分で直に聴き、みことばのうちに現れるメシアの現臨を、そしてみことばのうちに力づよく生き働く神に、魂の底から触れる体験において、主イエスは神の子であり、人類の救いのために遣わされた神のメシアである、という真実を経験し知ったのではないか、と思います。信仰が不動の事実として与えられた瞬間でもあります。単に「力」を求めるのではなくて、神の子が自分の救い主として到来して今ここに現れている、そして自分の息子ばかりか、自分も家族もみんなを救うために、今ここに現臨して、信じるか、と真剣な決断を迫っているのです。このみことばの中には、神の御子であるからこそ、神から遣わされたメシアであるからこそ、発揮する救いの力が現れている。その本当の救いの力を前にして、あなたはわたしを信じるか、と主は霊的に問われ、そしてこの人も、霊の助けにより、あなたをすべて信じます、と決断することができ、みことばのうちに実現している神の救いを受け入れることができたのではないでしょうか。ここで、信仰の焦点は、心を向けるべき中心点は大きく変わります。息子を救いたい、という願望と力の崇拝から、神のメシアが自分の前に救い主として到来しており、今ここに真理のみことばを語り告げておられ、今まさにここでわたしはその真理に触れている、そしてわたしとわたしの家族の救いのために、今まさに神のみわざを行っておられる、否、みわざを行うどころか、既に「あなたの息子は生きる」という命の保証を宣言されたのだ、という驚くべき体験のうちにあって、この体験は信仰の本質を根本から変える決定的な転換点となるのです。しかもさらに重要な点は、それはまさに、最後の審判者であり、完全に人類の罪を償い、神の義を回復するメシアにおいて、神との完全な和解が成就して、人は初めて本来の命の祝福に溢れることができたことを知ったのであります。この役人が、主イエスのみことばの前に、和解の福音の告知の前に、この神のメシアに、この最後の審判者に、自己のすべてを明け渡して、委ね、服従する決断をしたのです。黙って帰って行くとは、そういうことではないでしょうか。主ご自身が神の真理を語られたみことばにおいて、そこに現臨し現れている神のメシアの前で、自己を完全に開いて、主なる神に完全に明け渡して、すべてを委ね、完全に服従しようと決断したのです。そして、その時からその瞬間に、救いは現実のものとなったことを知り、確信したのではないでしょうか。みことばを聴くとは、みことばにおいて臨在するキリストのもとに導かれ、みことばを通して現臨するキリストのみわざを共に経験し、みことばによってそのみわざの中で生き続けることを意味するのではないでしょうか。言わば、キリストの命溢れる、そして力溢れる交わりの中に生かされることではないでしょうか。それを新たに生まれる、と言うのではないでしょうか。

 

5.結末:ことばにおいて既に実現していた救い

この奇跡の結末について、福音書はこう証言します。「4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」と、この結末が明記されています。注目すべき所は、「息子の病気が良くなった時刻」に、ヨハネは注意を向けようとしています。そのうえで「4:53 それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。」と明記して、ヨハネは、言葉と成就の関係について、注目させようとしています。ます。つまり、みことばの中に、神のロゴスであり啓示者ご自身が現臨し働いて、神のメシアとして力ある救いのみわざを成就する、というみことばにおける神の権能に、ヨハネは目を向けさせます。よく分からない不思議な現象に心を奪われ、ただ自分の願望にしがみつくのではなくて、明らかに、みことばにおいて神が現臨して働き、みことばを通して神のみわざは既に成就している、という決定的な福音のみことばの原理について、ヨハネはここで伝えようとしているのではないでしょうか。ここで初めて、この役人は、奇跡を遥かに超える真実な意味での奇跡の意味に目が開かれるのです。即ち、主イエスのうちに既に神のメシアは到来しており、したがって福音の告知そのものである主のみことばを通して、自分たちのうちに神の力あるわざが既に現在の出来事として行われていたのです。「彼もその家族もこぞって信じた」のは、その現実に招かれていたからではないかと思います。

2021年7月18日「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」 磯部理一郎 牧師

 

『イエスによるサマリアの女との問答表』(ヨハネによる福音書4章7~29節)

主イエスによる語りかけの言葉

(水を飲む:まことの救いは、どのようにして与えられるか)

4:7「水を飲ませてください

(あなたを救う救い主はだれか分かるか、分かれば救われる)

4:10「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼みその人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 

(真の救いは、律法と犠牲祭儀によらず、メシアにおける神の愛と恵みによる)

4:13「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かないわたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 

神との和解による救いのためには、あなたは自分の罪をどう償うのか)

4:16「行って、あなたの夫ここに呼んで来なさい」

4:17「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

 

神との和解による父の礼拝は、すでに今主イエスにおいて到来している)

4:21「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

(主イエスご自身からの自己啓示:エゴ―エイミ)

4:26「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

2021.7.18 磯部理一郎

サマリアの女による応答の言葉

(ユダヤの律法と犠牲祭儀による救いか、サマリア律法による救いか)

ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしい頼むのですか

「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

 

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 

 

(自分を根源から本質において支配する罪に心の目を向ける女)

「わたしには夫はいません」

(どのような「犠牲祭儀による礼拝」が救いになるか、エルサレム神殿か)

「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。

 

 

4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

 

 

 

4:29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

2021年7月11日「天に属する者は天に、地に属する者は地に」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 7.11 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第8主日

ヨハネによる福音書講解説教6

説教 「天に属する者は天に、地に属する者は地に」

聖書 ヨハネによる福音書3章31~36節

ヨハネの手紙一5章6~12節

 

 

3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる地から出る者は地に属し地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない

3:33 その証しを受け入れる者は神が真実であること確認したことになる。

3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される神が”霊”を限りなくお与えになるからである。

3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた

3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、

御子に従わない者は命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 

 

1.ヨハネは、「二元論」によって、福音を告知する

昨年の「ハイデルベルク信仰問答」も、そして今年の「ヨハネによる福音書」も、きちんとその意味を咀嚼して理解するには、決して容易いことではないように思います。聖書を読み解くとは、すぐに誰にでも分かる、という分かり易い話ではないようです。一年かけても、場合によっては10年も学び続けても、必ずしも「よく分かりました」とはならないのです。けれども、根気強く学び続けますと、ある程度、その考え方や特徴は、分かるようになるのではないかと思います。「信条」であれば、教会の一致した信仰基準なので、その信仰基準をもって、自分の信仰を点検し検証することができるようになります。自分の信仰をより堅固につくるうえで「信条」から学び直すことで、信条は非常に有効に活用できるようになります。「ヨハネによる福音書」であれば、ヨハネ福音書が、どのように福音を語るのか、その「語り方」や特徴が分かるようになると、そうした語り方の特徴を手掛かりにして、より深くより鮮明にその意味が分かるようになります。

そこで、本日は、ヨハネによる福音書を共に読み、共通した理解を共有するために、読み解く上で重要な鍵となる、コツのような所を、先ずお話したいと思います。その重要な手がかりは、説教題にも「天に属する者は天に、地に属する者は地に」ありますように、ヨハネは、「天」に対して「地」、「命」に対して「死」、「信じる者」に対して「信じない者」…というように、相互に対立する概念を対照させることで、「福音」の本質をより深くより鋭く伝えようとします。今日の聖書テキストには、「天」に対して「地」が登場しますが、他にも「信じる者」に対して「信じない者」、「永遠の命」に対して「死と滅び」、「神の愛」に対して「神の怒り」、「霊」に対して「肉」というように、背反しあう二元論をもって「福音」の本質を浮き立たせようとします。天と地、上と下、光と闇、真理と虚偽、命と死、霊と肉、永遠と滅び、善と悪、自由と隷属、というように、常に本質的に異なりしかも相互に対立し合う二元論をもって、福音を解き明かそうとします。そればかりか、天と光、命と永遠、霊と自由などは、相互に互換性のある共通概念として、用いられます。地も下も、闇も虚偽も、肉も滅びも、其々相通じ合う共通概念ですので、極論すれば、〇か×か、という実に単純な二元対立の中に、聞く者を引き込んで、どちらを選択するか、その決断を迫る、という語り口になります。そしてあくまでも〇は〇、×は×ですから、聞き手は、二元論という二者択一の中で逃げ場を失い決断を迫られる、ということになります。

私たちは、ヨハネの福音告知によって、二元対立し合う背反する二つの世界の狭間に立たされます。そして、非常に厳粛に、しかも危機的な意識の中で、果たして自分は「命」なのか、それとも「死」なのか、或いは「真理」なのか、それとも「偽り」なのか、そのどちからを選ぶという決断を迫られます。どちらを選ぶのか、という福音のみことばの前に立つことで、「信仰」が自己の根源から問われます。言い換えますと、福音のみことばを聴くとは、自分が厳粛な思いで「信仰」を選択する決断へ招かれることにもなるのです。その結果、「みことば」それ自体が、聞き分けて信じ受け入れることで、あなたに「命」を与えるのか、それとも、あなたは「死」を選ぶのか、その選択的決断に導かれることになります。しかも、その自分が下す信仰の決断と選択において、私たちは既に「救われている」か「裁かれている」か、裁きまでもが即時に決定してしまうのです。こうした「福音の告知」は、ではあなたは信じて受け入れるか、それとも拒否するのか、それがそのままその場において、「審判の法廷」に立つことになります。ヨハネは、「福音」を二元論の中で告知することで、告知された福音のみことばにおいて、二者択一的選択と決断を迫り、したがってその結果、「福音の告知」それ自体が、ついには「審判」の場となり、「法廷」そのものとなるように、みことばを構造化した、と言ってもよいのではないかと思います。まさに「福音の告知」は、聴く人々を二元論的決断のうちに立たせ、あなたの救いと滅びが決定づけられる審判の場となる、という一連のみことばによる神のみざわなとなって働くのです。しかもその「福音の告知」の言葉のただ中に、神は「言」として生きて働き現臨しておられるのです。こうした「福音の告知」の前で、私たちは逃げ場を失い、根源から鋭く自己の実存が深刻に問われ、ついに光のうちに生きるのか、闇のうちに生きるのか、その決断を徹底的に迫られることになるのです。こうした所に、ヨハネの福音の語り方の特徴が、非常によく現れているのではないでしょうか。3章16節で「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と、ヨハネは決定的な愛と命の福音を告知します。しかしその福音の告知は、直ちに「3:18 御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と語り、信じる者には救いの宣言を、信じない者には裁きの宣告をします。このように「福音の告知」は、即座に、一方では救いを宣言する「福音」となり、他方では裁きの宣告する「神の呪い」或いは「神の怒り」となって聞く者の上にとどまるのです。さてあなたはどちらに立つのか、という二元論のみことばの前に立つひとりひとりの決断を通して、「救い」と「裁き」という最後の審判はすでに今ここに、あなたのうちに成就してしまうのです。こうしたヨハネの宣教の特徴は、福音書の全編に渡って貫かれています。

 

2.ヨハネは、未来の最後の審判を「現在化」して、福音を告知する

もう一つ、ヨハネの著しい特徴は、すべての時間を「現在化」して語る、という特徴です。簡潔に言えば、「明日」のことも「今」はっきりしなさい、と現在化して告げ、決断を迫ります。そればかりか、聞く側も、絶えず「現在」の出来事として、誠実に聞き分けて判断し決断することが求められます。「福音の告知」がなされ、そのみことばを聴いた「その場」において、しかもいつかこれからではなくて、「今」ここでの決断が迫られることで、その決断によって、審判もまた「今」ここで実現してしまうことになります。本来は、未来の「終末」において訪れるはずの「最後の審判」が、「今」ここで聞いたみことばにおいて「現在化」された形で告知されることにより、実質的には、すでに「審判」は結審してしまうのです。言わば、ヨハネは、福音を光か闇かという二元論の中であなたに告知することで、しかも未来に起こるはずの最後の審判を今ここに現在化させて告げ知らせることで、みことばを聴いたこの場において、あなたの現在のこととして救いか裁きかという審判を既に実現させてしまうことになるのです。まさに、みことばにおいて、再臨のキリストによる「最後の審判」は、未来から今へと「現在化」され、しかも二元論の選択的決断により、すでに今聞いたみことばにおいて完了してしまうになります。このようにヨハネは、過去・現在・未来と流れる「時間」の概念をすべて「現在」に集中させることで、「今」こそが「永遠」の場となり、「今」ここにすべてが普遍化されるのです。その意味において、終末の「現在化」は、現在の福音告知を永遠不変化してしまうことになります。みことばを聴くことにおいて、「今、現在」という一点に、全ての時間を圧縮させてしまい、時を超えて「永遠」を今に持ち込むのです。その結果、福音の告知において、本来はいつか未来に訪れるはずの「最後の審判」は現在化され、しかも二元論的に信仰の決断が迫られるというみことばによる法廷に立たされ、ついにはその選択と決断によって「最後の審判」が結審してしまうのです。「いつかやる!」ではなく、「今でしょ!」と迫る所に、ヨハネによる福音の告知の迫り方、或いは語り方の特徴があると言えます。このように、今ここで決断を迫る、言わば未来を「待つ」或いは「待望する」という原始教会からの伝承を受け継ぎながら、決して廃棄改変したわけではないのですが、ヨハネは、終末の時間を現在化することで、時間概念を「量」から「質」に転換させているのではないでしょうか。待望して待つべき「未来」と「終末」という量的な時間概念を、今現在に圧縮して、即ち「今」に現在化させてしまうことで、「永遠」という本質を量的にではなく質的に到来させて展開しようとした、と考えられます。この福音の語り方は、どうして、どこから、生まれたのでしょうか。もうすぐに終末が到来し最後の審判に立たねばならないので、悔い改めて、準備をしましょう、という原始教会のメッセージを、より新しくそしてより深く解釈し直して、福音の告知と最後の審判とを直結させる時間の構造的な圧縮は、どこからどうして、可能となったのでしょうか。ヨハネは、今キリストの福音が告げられたからには、信じて受け入れるのであれば、永遠の命を得るけれども、今信じて受け入れることができないのであれば、その時点で、すでに裁かれている、と断言します。こうしたヨハネのような宣教は、どこから生まれたのか、それは、非常に意味深い問題であります。

 

3.先在のロゴス・キリスト

それは、ヨハネが「キリスト」をどのように理解していたか、という「キリスト論」から生じている、と考えられます。つまりヨハネとヨハネの教会が共有し大事にしていた信仰告白、つまりキリスト告白そのものと深く関係していると思われます。ヨハネは、洗礼者ヨハネの証言として、次のように「キリスト」について、証言します。「3:31上から来られる方は、すべてのものの上におられる地から出る者は地に属し地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」と言い表します。これだけ読んだだけでは、意味をよく理解することは難しいと思います。そこで、冒頭で申しましたヨハネの二元論的対照表現を想い起しますと、「上」も「天」も、「神」も「霊」も「命」も、すべて共通する同一概念として、理解し捉えることができます。反対の概念として「地」「肉」「死」「裁かれている」「信じない」などがその共通概念です。そうした対立概念と共通概念を巧みに用いながら、キリストとはどのようなお方なのか、どこ(天)に属し、どこ(天)から来てどこ(天)へ行かれるのか、何を本質(受肉した神の言)としておられるのかを、明らかに示そうとします。ヨハネ福音書の最大の特徴は、そうした天と地、霊と肉などの相対立する二元論的概念を用いて、キリストとは何か、より一層深い所から言い表そうとするヨハネの「キリスト」告白にあります。

結論から申しますと、ヨハネのキリスト理解は単純明解です。それは何よりも「言」である、ということです。キリストは本質的に「言」そのものであり、言を告げ知らせる「告知者」でもあり、同時にまた告知された福音の「言」そのものであります。少し乱暴な表現になりますが、「言」とは、創造・和解・救贖を三一論的に貫き、神・キリスト・聖霊・受肉のキリスト・十字架と復活と昇天による救い・宣教・教会・礼拝・サクラメント・聖書・説教などを一気に一串に串刺しにしている先在の神の言であります。その典型的な表現が、福音書の冒頭で、宣言されます。「1:1 初めに言があった言は神と共にあった言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と語り、ヨハネは、キリストを「言」として言い表します。言い換えますと、「神」であり、万物の「創造主」であり、「命」の源泉であり、世に真理を照らし出す「啓示者」ご自身でもあり、自らが自らにおいて自らを語る「言」である、ということになるでしょうか。このように「言(ロゴス)」とは、語られ言葉であり、告げ知らされた言葉の内容本質でもあり、最終的には、言葉を通して告げ知らされた真理であり存在そのものを意味します。したがって、告げ知らされた言葉において、またその告知の言葉を通して、「言」そのものが啓示され、「言」そのものも現臨して「言」の真理が光のように明らかに現るのです。

「言」としてのキリストは、福音の啓示者であり、同時に福音そのものを実現する「本体」である受肉のイエス・キリストであり、したがって告知者が聖霊によって福音を告知するみことばにおいて、その告知者である「言」は現臨して、先在の神であると共に受肉した贖罪者である自己を光のように明らかに現わすのです。したがって「みことばを聞く」ということは、即ち福音を告知し、みことばにおいて現臨し、救いを実現し、審判するお方である「キリスト」ご自身の前に立つ、ということを意味します。聴く者は、告げ知らされた言葉において、今既に救い主キリストを眼前に迎えているのです。みことばによる福音の告知は、単なる言語的な告知に止まらず、告知された福音のことばにおいて今既に現存するキリストご自身が現れており、聞く者のもとに審判者としてすでに到来しているのであり、まさにみことばにおいてキリストは、聞く者の前に存在と力を尽くして迫っているのであります。なぜなら、福音の告知する告知者自身が、みことばにおいて現臨する「永遠の神」であり、「先在のロゴス」であり、「十字架と復活の受肉のキリスト」であり、全権を委任委譲された「最後の審判者」であるからです。みことばを語る、みことばが語られるとは、みことばを語る本体が現臨してそこにみわざを行うことと直結しているからです。つまり神の子であるキリスト、それは先在のロゴスであり、それは受肉して世に神を啓示する啓示者ご自身であり、それはまさに語られた福音の内容そのものでもあります。みことばとは、神がことばとして一体化され、神もことばも直結された一体構造として、キリストを信じ受け入れていることになります。したがって、この言葉におけるキリストは、過去・現在・未来を串刺しにするようにして、みことばにおいて、現在化され現存するのです。言い換えれば、ヨハネが勝手に、終末を現在化したというよりも、キリストというお方の持つ本質そのものが、時間を超えた永遠の本質であり、同時にまた時間の中において、永遠の救いを実現し決定づける審判者であるからです。

 

4.「証しを受け入れる」

福音書3章32節以下で「3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。3:33 その証しを受け入れる者は神が真実であること確認したことになる。」と記しています。まずここで「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」という表現ですが、言うまでもなく、先在のロゴスであり、神の独り子であるキリストが、神であり、神と共にあって、万物を創造し、命の源泉であり、人間に命と真理を賦与する光であることを、「見たこと、聞いたことを証しされる」と表現したのではないでしょうか。ここでも、「言」であるキリストは、天の神を告知し啓示する証言者として、その証言のみことばを通して、天の本質の真理を証しているのです。しかし天や神とは本質が完全に異なる地は、それを受け入れ理解することはできません。ただ唯一の道は、みことばを信じて受け入れることで、初めてその内容本質である神の独り子であり先在のロゴスの真理を認められるようになり、神の存在を知ることになるのです。主イエスが「わたしはであり、真理であり、である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と仰せになられた通りであります。主イエスとその証しによる道を通って、主イエスという真理に辿り着くことがえき、そして主イエスという命に導かれるのです。33節に「その証しを受け入れる者は、神が真実であること(o[ti o` qeo.j avlhqh,j evstin)を確認したことになる。」とあります。告げ知らされた言葉を信じて受け入れ、聴き分けることで、初めて「神」を認識できるようになるのです。「確認したことになる」と訳されている元の字は、「封印する」(sfragi,zw evsfra,gisen)というアオリスト形の字で書かれています。口語訳聖書は「しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである」と訳し、新改訳聖書は「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである」と訳しています。つまり、責任をもって賛同すると共にその内容を証明する証明者となって、署名捺印をする、という意味になります。33節の要点は、「その証を受け入れる者(o` labw.n auvtou/ th.n)」とは、自ら責任をもって主の証言に賛同し、自らもその内容が真実であることを証明する証言者となることです。

 

5.人の子の即位式における審判者としての全権委譲:遣わす、言葉を語る、聖霊を与える

34節で「神がお遣わしになった方は(o]n ga.r avpe,steilen o` qeo.j)は、神の言葉を話される(ta. r`h,mata tou/ qeou/ lalei/)。神が”霊”を限りなくお与えになるからである(ouv ga.r evk me,trou di,dwsin to. pneu/ma)。」と記されております、この表現は、まさに先ほど申し上げた、神の独り子である先在のロゴスが、地上に受肉して、神の言葉を語る啓示者として遣わされますが、その啓示者は「かぎりなく」(ouv ga.r evk me,trou)とありますように、聖霊が量り取られて与えられるのではなく、「無限」に与えられている、ということです。それは、すなわち、神の本質である聖霊を無限に共有する存在である、すなわち「神」であることを意味します。だからこそ、「3:35 御父は御子を愛してその手にすべてをゆだねられた。」のであります。このみ言葉を聴きますと、やはり共観福音書の主イエスご自身の受洗の記事を想い起します。即ち「1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、『あなたはわたしの愛する子わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた。」という記述です。以前に、この記述について触れた際には、「十字架における贖罪の死」を前提にした「御子の聖別奉献」の宣言である、ということを申し上げました。それがまさに「神は独り子をお与えなる」ことであります。35節の「3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」も同じ意味に理解することができます。「御父は御子を愛して」とありますように、神の愛は「御子の手にすべてをお委ねする」ことであり、御子の十字架における贖罪の死とその従順を「世に与える」ことでした。神の愛は、一方で最後の審判者としての全権を委譲され、他方ではそのために御子におけるすべての祝福と愛を世に与えられたのです。ここで最も重要なことは、万物の審判者としての神は、その全権のすべてを御子の御手にお委ねになり、完全に全権委譲された、という公の宣言がここでなされていることであり、そればかりか、審判の全権は御子に、そして御子は、御子ご自身の十字架の犠牲における罪の赦しを語る福音の告知者として、人々の前に立つのです。その語られたみことばにおいて、御子における愛と赦しを信じ受け入れるのか、それとも御子を拒絶して、愛と赦しを捨ててしまうのか、みことばを聴く人々はその根源から実存が深く問われ、命か滅びかという決断を迫られ、まさにみことばの法廷において最後の審判は結審するのであります。

 

6.「みことば」という最終法廷における結審

36節で「3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」と主イエスははっきりと主文宣告をします。冒頭で、ヨハネ福音書の二元論的福音告知の特徴についてお話しました。二元論は、救いか裁きか、命か死か、という二者選択を迫り、信仰的決断を求めます。そうした福音の語り方は、実はヨハネのキリスト論、すなわちキリスト理解に起因しており、そのキリスト論の特徴は、語られ告知された「言」そのものが、先在の「言」であり、神であり、神の独り子であり、かつまた創造主でもあるのです。しかもキリストは「最後の審判者」としてすでに神より全権委譲されて、最後の審判の法廷に既に臨んでおられるのです。「量」的時間概念では未来の終末に再臨する審判者は、今ここに、現在化された永遠の「質」的時間概念のもとに、人々はキリストの語る言葉において、二元論的に選択と決断が求められ、信仰的決断を通してキリストとキリストの救いに永遠に与り、或いは不信仰を通して神の愛と赦しを放棄し、神の怒りを選択することで、この法廷での審判は結審するのです。キリストのみことばを聴くことおいて、最終法廷に立ち、二元論的決断が迫られ、その決断を通して、審判は結審します。そうした宣言が、36節以下のみ言葉によって示されます。「3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」という宣告です。したがって、繰り返しますが、「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている神の独り子の名を信じていないからである。」というメッセージとなって、最終法廷での結審となります。

2021年7月4日「メシアを預言する洗礼者ヨハネ」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 7. 4 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第7主日

ヨハネによる福音書講解説教5

説教 「メシアを預言する洗礼者ヨハネ」

聖書 マラキ書3章1~12節

ヨハネによる福音書3章22~30節

 

 

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行ってそこに一緒に滞在し洗礼を授けておられた

3:23 他方、ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。

3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。

3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった

3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が洗礼を授けていますみんながあの人の方へ行っています。」

3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ人は何も受けることができない

3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。

3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人そばに立って耳を傾け花婿の声が聞こえる大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている

3:30 あの方は栄えわたしは衰えねばならない。」

 

 

はじめに. 洗礼者ヨハネの証言

前回の説教では、ニコデモとの問答を受けて、主イエスは、ご自身が天から降って来た「神のメシア」である、と暗示しました。それを「わたし」という一人称単数形に注目して聖書を読みました。またそれを受けて、福音書記者ヨハネとその教会も主イエスと一緒になって、主イエスの証言者として、メシアを受け入れることのできないユダヤ教の権力者たちや世俗の権力者たちと向き合い、闘っていたことも、「わたしたち」という一人称複数形に注目して読みました。

しかし弟子たちのほかに、メシアの到来を証言するために神から遣わされた偉大な人物が、ここに、もう一人、おりました。洗礼者ヨハネです。本日のテーマは、この洗礼者ヨハネの証になります。福音書記者ヨハネは福音書の冒頭で「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と記します。つまり、主イエスが「神の独り子」であり先在の「ロゴス(言)」であって、そのお方が受肉して世に降って来られたことを真っ先に宣言します。そしてこの神の独り子を証言する唯一の証言者として、神から遣わされた洗礼者ヨハネを紹介します。1章15節以下から登場させます。つまり洗礼者自身が、神のメシアである主イエスを証言する「証言者」に過ぎないことをはっきりと告白します。「1:15 ヨハネはこの方について証しをし声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神この方が神を示されたのである。1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。」(ヨハネ1:15~28)。

少し長い引用になりましたが、福音書記者ヨハネは、共観福音書以上に、非常に丁寧にそして重く、洗礼者ヨハネを紹介しております。しかも先生者ヨハネ自身の証言を採り挙げながら、非常に明解かつ明瞭に「キリスト」を証言し、反対に自分は単にその証人に過ぎず、ただキリストをお迎えするために道備えの奉仕者であって、そのために、水で悔い改めを求める洗礼を授けている、と告白しています。洗礼者ヨハネは、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」と公言して、明確にメシアを指し示すと同時に、「わたしはメシアではない」と言って、自分はメシアの証言者に過ぎないことを謙遜かつ明確に言い表してします。このように洗礼者ヨハネは、自分の「天分」をはっきりと弁えており、非常に謙遜な証言者として自らを徹底します。おそらくペトロをはじめとする弟子たちさえも、主イエスが本当の所はどなたなのか、はっきりとした確信を持てないままに、十字架の死に立ち会うことになると思われます。しかしただひとり、正確に「主イエスはだれであるか」、その真実を証しすることのできた人物こそ「洗礼者ヨハネ」でありました。その洗礼者ヨハネの宣教の中心は、主イエスをお迎えするための道備えとして、水による洗礼を授けることでした。

 

1.洗礼者ヨハネの「水による洗礼」:その意味と目的

ところが、とても意味深いことに、福音書は3章22節以下でこう記します。「3:22 その後、イエスは弟子たちとユダ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。」とあります。つまり、洗礼者ヨハネもそして主イエスも共に、全く同じように、「水」で洗礼を授けていた、というのです。こう読みますと、洗礼は特別な意味を持った儀式のような印象を受けますが、当時は非常に広く行われていたようです。例えば、異教徒がユダヤ教に改宗する際には、神に対する悔い改めと清めの儀式として、水による洗礼が古くから行われていたようですし、クムラン教団では、洗礼のための沐浴設備があったようです。洗礼は、ある意味で、洗礼は当時の宗教生活には欠かすことのできない慣習であったようです。ですから、洗礼を授けまた洗礼を受けるということは、ユダヤ全土で広範囲に行われていた宗教実践であったと思われます。洗礼を受け、心を入れ替えて、清く正しい生活を初め直すことは一般的な宗教生活でした。もう一つ、民衆の心には「終末」意識が大きく影響していた、と考えられます。これまでの社会が終わり新しい時代が到来する、という期待と熱狂が人々を支配していたようです。そうしたユダヤの人々の思いは、当然ながら、洗礼者ヨハネの洗礼活動や主イエスの宣教に引き寄せられて、洗礼を受ける人々は続出する、という事態になっていたのではないか、と思われます。言わば「洗礼」は、当時の大きな広がりを見せていたユダヤの宗教運動を中心から支える典型的な儀式であった、と推察できます。

問題は、その洗礼がいったい何を意味し、象徴しているのか、洗礼の「内容」にありました。単なる悔い改めでもなく、また清めでもなく、ある決定的に意味と内容をもって、洗礼者ヨハネは、サリム近くのアイノンという場所で、或いはベタニアで洗礼を授けていたようです。その決定的な意味と目的は、悔い改め、即ち心を改めて神に向け直して、到来する「メシアを迎える」備えをなす、ということにありました。言い換えれば、民衆の心を「メシアの到来」に向けること、メシア到来を受け入れる準備をさせることにありました。「3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人そばに立って耳を傾け花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」と、洗礼者ヨハネは弟子たちに答えていますように、明らかに「花嫁」に喩えたイスラエルの民が、「花婿」に喩えたメシア(キリスト)を清く正しく新しい住まいに迎えられるように、花婿と花嫁との間に立って、婚宴を整えること、それが洗礼者ヨハネの洗礼の意味と目的でありました。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。」と告白し、したがって、「3:30 あの方は栄えわたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:30)と弟子に説いて、洗礼者にはっきりとその「時」を、或いはその「幕場」を明確に弁えて、授けるヨハネの洗礼であることをよく示しています。つまり洗礼の内容とその意味は、今まさに終わり迎えようとしており、洗礼者ヨハネの洗礼の時は移り変わろうとしていたのです。洗礼者ヨハネの洗礼は「衰えねばならない」時期を迎え、主イエスの洗礼は「栄える」時期に至った、と証言している通りであります。そしてその証拠に、明らかに現実は、「あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」(ヨハネ3:26)と弟子たちが告げるように、みんなが主イエスのもとへ行って、洗礼を主イエスの名によって受けていたのであります。こうした所に、洗礼者ヨハネが「神の時」に従順に従おうとする「神への誠実さ」(Honesty to God)を窺い知ることができます。

 

2.主イエスの洗礼:洗礼者ヨハネの洗礼との本質的な違い

実は、この洗礼について、とても意味深長な表現がヨハネ福音書でなされます。福音書記者ヨハネは、3章22節で「 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し洗礼を授けておられた。」と記していますが、この「そこに一緒に滞在しdie,triben diatri,bw)、洗礼を授けておられたevba,ptizen bapti,zw)」という字をどちらも「未完了形」で書いています。先ほど、洗礼者ヨハネの洗礼の場合は「衰えねばならない」とありますように、時は移り変わりつつあることを明記していました。しかし主イエスの授ける洗礼はまだ完了していない、ということを暗に示そうとしているようです。まだ未完了という洗礼の本質を残したまま、主イエスの洗礼は授けられていた、ということを、福音書記者ヨハネは暗示しているように見えます。洗礼者ヨハネの洗礼の使命は既に主イエスの到来と共に完了したのですが、主イエスの洗礼は、まだ今の段階では完了してはおらず、まだ大きな課題を残したまま、洗礼を授けていた、ということになります。

ところが、この洗礼者ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼をめぐり、ある現実的な疑問が生じます。「3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が洗礼を授けていますみんながあの人の方へ行っています。』」と記されます。今まさに、洗礼者ヨハネの弟子たちの眼前で、救済史の時が大きく変わり始めていたのです。「清めのことで論増が起こった」(25節)と表現されています。論点は「清め」です。つまり人そのものが、或いは人の罪が清められる、とは、どういうことなのでしょうか。ここには、いくつかのことが想定されます。まず第一に、⑴救済史上の「時」の移り変わりという問題です。メシアの到来という時を、洗礼者ヨハネのように、見分けることができるかできないか、にあります。みことばを通して働き現臨するメシアに、悔い改めと信仰を通してと出会い、メシアと向き合う「招きの時」でもあります。第二は、⑵洗礼の内容本質の違いです。洗礼者ヨハネの洗礼は、あくまでも「メシア到来」を指し示して、「道を整える」洗礼です。それに対して、主イエスの洗礼の本質は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」(ヨハネ3:14)という決定的な使命を担うものであるからです。すなわち主イエスの洗礼は、受肉した先在のロゴス(言)であり、神の独り子による「十字架における贖罪の死」に与る、という洗礼の本質と意味を担っています。十字架において罪の代価を完全に支払い尽くして、贖罪の死を通して、罪人を贖うことにあります。この主イエスの十字架における贖罪の死に与る洗礼です。そうでなければ、どれほど悔い改めたとしても、真実な意味で「神の清め」は実現しないからです。恐らく福音書記者ヨハネは、主イエスの十字架における贖罪の死を指し示すために、敢えて「未完了」で表そうとしたのではないか、と考えられます。つまり、未完を強調することで、主イエスの洗礼の本質は、悔い改めを前提にしつつも、むしろその目的は「十字架における贖罪の死」による贖いの洗礼であることを指刺したのではないでしょうか。そして三つ目は、⑶「清めの最終審判者は神である」ということになります。どれだけ水を被り、どれだけ胸を打ち叩いて、懺悔したとしても、罪を根本からお赦しになるのは「神」だからです。「清め」の根源的な有効性を判断しかつまた決定する審判者は「神」なのです。残念ながら、清めそのものを実現する実効性は、洗礼者ヨハネの洗礼には全くないのです。洗礼者ヨハネ自身が「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(ヨハネ1:26~27)と告白する通りで、イスラエルの民を浄める、という民の罪を根元から清める力は自分には全くない、はっきりと言い表しています。これに対して、主イエスの洗礼は「1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:10~11)と証言されるように、天が裂けて神の霊が降り、天からの完全なる愛と義の承認を受ける場となるのです。「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声が受洗者の心身の隅々にまで響き渡る洗礼であります。まさにこれは、言わば、主イエスがメシアとして、また主の洗礼の本質が神のものである、という天から完全品質の保証を受けた洗礼ではないでしょうか。

こうした「清め」をめぐる本質問題を弟子たちが論争し合う中で、ついに洗礼者ヨハネは、はっきりと弟子たちに教えます。「3:27天から与えられなければ人は何も受けることができない。3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」(ヨハネ3:27~28)。洗礼者ヨハネもまた、ここで、花嫁であるイスラエルの民を根元から清める花婿は自分ではなく、神が天において認め受け入れる「きよめ」とは、すなわち、神が天から与えるきよめは、受肉した神の独り子であり先在のロゴス(言)であるキリストの身体に与ることであり、キリストの洗礼にのみある、と証言して、弟子たちを諭したのです。

 

3.「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」

洗礼者ヨハネの水による洗礼と、そしてメシア(キリスト)による水と霊とによる洗礼の本質的な違いを考えますと、その決定的な判断基準を洗礼者ヨハネ自身の証言から得ることができます。それが「天から与えられなければ人は何も受けることができない」という3章27節の言葉です。洗礼者ヨハネ、天が誰に何をお与えになっておられるのか、深くそして厳密に見分け聞き分けています。自分には、前もって花婿と花婿の間に立ち、花嫁が新居を整えて、花婿であるキリストを清く正しく従順に迎え入れるよう、そのために婚宴を整え、その道備えをなす奉仕者として神に立てられたこと、そしてメシアの到来をイスラエル全土に告知して、イスラエル全土に悔い改めを迫り、水による清めバプテスマを授けることこそ、天から与えられた自分の使命であることを自覚していたと思われます。洗礼者ヨハネは、「メシア」という使命とは、天の神の独り子が天から降り受肉した主イエス・キリストにおいてのみ、実現可能な神の赦しである、ということを非常に鮮明に認識していたことがよく分かります。洗礼者ヨハネの使命は、その神のご決断とご計画に、全幅の信頼と讃美とをもって、ひたすらに服従することでした。

こうした考え方は、現代人の考えと質的に大きく異なる性格がありそうです。わたくしたち現代人は、ふつうは「人権」という絶対の権利のもとに、かつ自己を中心とする「自由意志」という信念のもとに、自己を思うがままに実現すべく、無制限に自己の可能性を追求しようと考えます。熊野先生風に表現すれば、近代の自我の原理です。その結果として、自由な競争という名のもとに、人間社会では激しい力づくの競争と闘い、場合によって生存をかけて奪い合いが生じます。そうした言動の原理は、常に紛争や戦争を引き起こすことも否めない事実です。しかしそうした自我の原理のただ中に身を置きつつも、「天は自分に何をお与えになるか」を、自分の欲望中心に思い込むのではなくて、謙遜に神の御心を慮り聞き分けることも、特にわたくしども神を信じ神に従おうとする者には重要なことです。自分が決めるのでもなく、多数決や社会が決めるのでもないのです。それは、ただ神のみが、お決めになることであります。それを可能な限り、時間と知恵を尽くして、慮り聞き分けるのです。みことばを幾度も幾度も聴き直しては、より深くより厳密に、そして謙遜に聴き分けつつ、いよいよ神の御心を深く探り求める中で、初めて天から何をお受けしたのかを知り、自らの立つ場、生きる場が明らかになるのです。人生の本質を、自分で獲りに行く戦利品として見るのではなくて、神が選び、神がお恵みくださる神の賜物として生きる場を求めるのであります。

この世にあって生きるとき、わたしどもの多くが経験する苦悩の起因は、そして解決点も同じように、多くの問題はここにあるのではないでしょうか。つまり自分の欲求欲望を中心にして奪い取りにかかる人生を生きるのか、それとも、神がお与えくださる賜物にしたがって謙遜に生きる人生なのか、それによって、苦悩も喜びを大きく変わるはずです。嫉妬や絶望に苦悩するとき、その多くの場合は、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」ことを聴き直す必要があります。仮に一見、奪い取りに成功し勝利と成功を喜ぶことができたとしても、それはヌカ喜びに終わってしまうはずです。なぜなら、天の神はそれをあなたにお与えになっていないからです。天から与えられないものを、人は決して受けることができないからです。ましてや人や物や金の力を用いて得たものなどは、一瞬のうちに奪い去られてしまうでありましょう。そしてこのことを最も襟を正して聴く場所こそ「教会」の中ではないでしょうか。教会の外の世界も、勿論のことですが、それ以上に「教会」の中で、謙遜に聴き分けられるべきみことばであります。

 

4.「十字架における贖罪の死」というキリストの名による洗礼

さて、先ほど22節の「イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し洗礼を授けておられた」という福音書の記述に触れた折りに、「イエスは洗礼を授けておられた」という字は「未完了形」である、と申しました。問題は、この時のイエスの洗礼において、「何」が未完了なのか、ということです。そしてそれは何と言っても、「十字架における贖罪の死」に招かれ与る洗礼である、と申しました。つまり、主イエスはまだ「十字架の死」と神の栄光を受けておられないからです。先ほどは、主イエスの洗礼について三つの観点から、すなわち⑴救済史上の時の移り変わり、⑵贖罪の死に与る洗礼、そして最後に⑶清めの判定者はあくまでも神である、という視点から、洗礼者ヨハネとイエスさまの洗礼との本質的な違いを明らかにしましたが、ここからは、さらにもう一歩踏み込んで、主イエスの洗礼の本質について迫ってまいりたいと思います。

まず救済史における「時」の深まりですが、福音書記者ヨハネは、主イエスの洗礼執行が、まだ「十字架の栄光」を受けていない時の洗礼であるがゆえに、「未完了形」でその時を暗示した、と指摘しました。しかし改めて洗礼者ヨハネの洗礼と比べ直してみますと、洗礼者ヨハネのそれは洗礼と言っても、あくまでもメシア到来を告知して指し示す洗礼であり、メシアを受け入れる「道備え」の洗礼でありました。したがって救済史という視点では、主イエスの到来を指し示す、あくまでも準備の洗礼です。地上の者がこちら側からいくら悔い改めたとしても、それは天における完全な清めにはなりません。ましてや神による救いそのものにはなりません。あくまでも地上での「準備」に過ぎず、道を備える取り組みに過ぎないのです。したがってどうしてもそれには「限界」もあり、不完全不徹底が生じます。その結果、清めの水による洗礼は、繰り返し行われることが余儀なくされ、再洗礼が繰り返されます。クムラン教団の沐浴洗礼も、繰り返し行われていたようです。しかし主イエスの洗礼は、罪を完全に償い罪を赦すための、ただ一度限りの、しかも永遠の罪の赦しであり、完全な償いと救いに人々を招き、救いそのものを天から与える洗礼です。福音書が暗示する通り、確かにこの世の時間と時点では、まだ十字架の栄光を受けていないので、未完了となったわけですが、しかしそうは言っても、主イエスが授ける洗礼は、本質において十字架における贖罪の死に招き罪の赦しに与る洗礼であり、救済史的には永遠に計画変更のない、永遠絶対の洗礼であります。神の独り子である先在の神のロゴス(言)は、聖霊によってマリアより受肉し、十字架における贖罪の死を迎える永遠の定めの中にあります。その不変不動の永遠の神の約束として、主イエスは、神の全能と全権をもって、ご自身に招き与らせる洗礼を授けておられました。この世における「時」という観点から言えば、十字架にかかる前の時点であり十字架の死はまだ実現してはいないのですから、未完了形ですが、しかし同時に、神の救いのご計画という点では、この世の時間概念の中に突入しつつも、この世の時間概念を遥かに突き抜けて、永遠完全の次元において、終末を先取りした形で、授けられるキリストの洗礼であり、しかもこの洗礼は、三位一体の神の名による永遠の神の約束のもとに、十字架における贖罪の死とそれによる赦しに招き与らせる洗礼であります。

こうした救済史の中で、時間の中にありつつしかも時間を超えて、終末を先取りした形で実現する救いの秘儀は「洗礼」だけではなく、全く同じことが「聖餐」についても言えます。過越の食事であった最後の晩餐においても、これから十字架において贖罪の死を遂げる前に、弟子たちを招き、十字架の犠牲を先取りして、罪を赦して新しい契約を結ぶ約束の場として、食卓を共にしておられたはずです。しかもこの約束の場は、先取りの約束ですが、永遠不動の約束でもあります。同じように、主イエスの名において洗礼を受けるとは、永遠に十字架における贖罪の死にあずかる、ということを意味するのではないでしょうか。確かにこの世の時の流れの中では未完了ですが、しかし同時に、キリストによる贖罪への招きにおいては、永遠で完全な形であります。そういう意味では、完了形でありつつも、その本質は永遠であり、完全であります。

繰り返し申しますが、キリストの洗礼とは、キリストの十字架における贖罪の死に与る洗礼です。問題は、洗礼者ヨハネの洗礼のように、こちら側人間の心や信仰を整え、主をお迎えするための道備えの準備ではありません。キリストご自身がキリストご自身の贖罪のお身体に神の恵みとして招き与らせる神のみわざであります。主の洗礼は、神の霊である神の本質から生じる神の働きです。言い換えれば、聖霊を通して神のロゴスは直接地上に降り、神が私たちの身体に宿り、私たちを神の神殿に造り変え生まれ変わらせる神のみわざであります。

 

5.キリストを着る、キリストの身体となる「洗礼」

まさに、洗礼はキリストを着るための神の招きであります。パウロはローマの信徒への手紙6章でこう教えています。「6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られその死にあずかるものとなりました(suneta,fhmen ou=n auvtw/| dia. tou/ bapti,smatoj eivj to.n qa,naton)。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたようにわたしたちも新しい命に生きるためなのです(i[na w[sper hvge,rqh Cristo.j evk nekrw/n dia. th/j do,xhj tou/ patro,j( ou[twj kai. h`mei/j evn kaino,thti zwh/j peripath,swmen)。6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と明記するように、キリストの洗礼は、キリストの十字架の死と復活の身体のうちに移し入れる神のみわざであります。ここで、洗礼の肝腎要となる最も重要な本質こそ、「キリストの受肉の身体」であります。いくら時の中で、過去・現在・未来と移り変わろうと、受肉のキリストの身体は永遠に至るまで貫かれています。わたしたちはそのキリストの身体に与る洗礼を受け聖餐を分かち合っているのです。十字架における栄光の死、贖罪の死も、そして三日に実現する栄光の復活も全て、このキリストの受肉した「お身体」において、このキリストにおける「人間性」を通して、初めて成し遂げられる私たち人間の救いであります。それゆえ、主イエスが授けられた洗礼の最も顕著な特徴は、そしてその本質は「キリストの身体に与る」ということであり、「キリストの身体」として造り変えられて新生することにあります。それは、私たちがキリストの人間性から離れた所で、別個に新しい人間として生まれ変わることではありません。わたくしたちが生まれ変わる新しい魂や肉体、それは、キリストの身体と全く同じ一つの身体であり、まさに「キリストの身体」そのものとして分かち与えられて、私たちは生まれ変わり復活するのであります。そして私たちの心と身体の内側に新たに生まれた、このキリストの身体はいよいよ聖餐を通して養われかつ完全な復活体へと成長してゆくのであります。外なる人は滅び、内なる人は日々新たにされるのです。

 

2021年6月27日「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 6.27 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第6主日

ヨハネによる福音書講解説教4

説教 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

聖書 民数記21章4~9節

ヨハネによる福音書3章1~21節

 

 

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。」

 

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない霊から生まれた者も皆そのとおりである。」3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

 

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証し受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 

3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来るその行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

 

はじめに. 前回説教「水と霊とによって新しく生まれる」を受けて

主イエスは、ニコデモに対して「だれでも、水と霊とによって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と教えました。天の神から「水」によって罪から清められ、神からの「霊」の力を受けて、霊の力をうちに宿して、内側から新しく造り変えられて、生まれ変わる「新しい人間性」となることを、ニコデモに示唆しました。ところが、残念なことに、ニコデモはそれを理解できず、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と否定してしまいました。その時、ニコデモの心を支配していたのは、主イエスの教える「永遠の、上から」生まれる新しい人間性とは真逆の、「時間と物質」に支配され続け、やがては老いて腐敗して「死」に逝く、言わば「滅びと破綻」の人間性でした。「生まれる」ということを「母親の胎内に入る」という物質的な生物概念によって理解しようとしていたようです。それでも、主イエスはニコデモに、丁寧にそしてとても誠実に、神の霊を「風」に喩えて、諭します。「3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と語って聞かせ、神の霊による新しい生き方があることを教えたのです。しかしそれでもニコデモは、「3:9どうして、そんなことがありえましょうか」と言って、ただ否定と反論を繰り返すばかりでした。

ニコデモのように私たちも、いつも「時間」と「物」に基づいて、全てを理解しようとします。「健康」と言えば、医者であり医療費だ、と考えます。しかし神さまとの豊かな義の関係にあること、神との祝福溢れる平和と平安安息は余り考えません。「幸せ」と言えば、衣食住と生活費が満たされることであり、立身出世を考えますが、「神の愛」や「神の義」を考えようとはしないのです。それも、いつの間にか、宗教世界の中にまで、神殿運営や教会運営の奥深くに世俗的欲求が持ち込まれ、神の家を「強盗の巣」に変質させてしまうのです。そのように私たちも、「この世」の人間であり、神を捨て堕落し神のもとから転落した「滅びと破れ」の人間性に支配された考え方しかできないのです。諦めて言えば、この世にある以上は仕方のないことかもしれません。神さまのことを正しく考えることは不可能なことです。「あなたはその音を聞いてもそれがどこから来てどこへ行くかを知らない。」とイエスさまが仰せになられる通りで、神さまの愛の御心にも、神さまの救いのご計画にも思いを向けることさえ出来ないのです。それなのに、本当は「天」の恵みでありながらも、「自然」の恵みである見なしてその恵みを享受し、受け取って生きています。神さまからいただいた恵みであるのに、たとえそれが神からの賜物であることを知らなくても、あたかも自分の独占物であるかのようにして、心ゆくまで享受することはできます。端的に言って、わたしたちの人生は、まさにそうしたものです。神も神の恵みであることも知らないまま、私たちは神からいただいた命をわがもののように生きている通りであります。主イエスは、「3:10あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と仰せなり、ニコデモと主イエスご自身との間にある、埋めようのない大きな溝に、胸を痛められるのでした。簡潔に言えば、上からの新しい啓示、神からの啓示をいくら説いて聞かせても、その天からの証言は受け入れられないのです。まさにそれは、神から水によって清められ、神の霊を心のうちに宿し新たに内側から神によって造り変えられるのでなければ、聖霊の導きと恵みに導かれ天の言葉を聞き入れて初めて、神の啓示を真理として悟ることができるのです。それがまさに「洗礼」を通して与る清めと聖霊の力であり、その水と霊の賜物として、信仰が与えられ、天から証しされた啓示のみことばを真理として深く悟り、心のうちに信じて受け入れることができるようになります。天の真理は、天からいただく水と霊の恵みによる信仰を通してのみ、認めかつ知ることができるのです。「自然と物の恵み」の根源は「上から、神による」ことに気付き、それを認め、地上から天上に心を向け直す「悔い改め」が求められます。主イエスは、否定を繰り返すニコデモに落胆しつつ、「3:10あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われますが、本来、イスラエルの教師とは、神の意志を知り、神に代わって民を正しく導き、神との正しい祝福の関係を、すなわち神の義を確保する使命を担うはずです。それなのに、どうしても、ニコデモは「神の意志」に心が向けられず、新たに天に向かって生まれることの意味が分からず、この世の時間と物質の支配の中で老いるばかりでありました。今の教会や牧師たちも、全く同じ過ちを犯し、「あなたは教師でありながら、こんなことが分からないのか」というある意味で厳しい審判の前に、主イエスを失望させているのではないでしょうか。

 

1.「あなたがたは、わたしたちの証を受け入れない。」

それでも、主イエスは、頑なに否定と拒否を繰り返すニコデモに対して、いよいよ誠実の限りを尽くして、ついに決定的な「神の啓示」を、決して割り引くことなく、丸ごと明らかにします。「3:10 イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたち知っていることを語り見たことを証ししているのに、あなたがたわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。』」と、福音の全てを、改めて誠実を尽くして、語り聞かせます。相手が分からないからと言って、福音の全てを語り与えることを、決して止めようとはしないのです。それはまさに、どんなに不信仰な人々の中にあっても、主イエスはひたすら天を見つめ、従順に死に至るまで十字架から降りようとはされなかったように、愛と憐れみのうちに立ち、福音の真理を証しすることは決してお止めになることはないのです。

さて、この主イエスの発言には、いくつかの重なり合った背景が見え隠れしています。まずその一つは、同じ主イエスの説教の中で、11節は一人称複数の「わたしたち」、12節では単数形の「わたし」に突然変わります。なぜ一人称に、複数と単数の違いが生じたのでしょうか。その背景には、元々受け継いだ主イエスご自身の説教と、それからヨハネとヨハネの教会の伝承とが、二重に重なり合って、ここに現れている、と考えられます。本来の主イエスのみことばを「わたし」が語り、本来の主イエスのみことばを受け継ぎながら、主イエスと共にある主イエスの共同体という意味で、「わたしたち」が語る、ということではないかと思います。ヨハネ以前の主のみことばとヨハネの伝承とが重複したのではないか、と想像できそうです。

いずれにしても、ここで踏まえておきたい大事な点は、ヨハネとその教会は、主イエスの教えを受け継ぎながら、主イエスと共にその証言者として、自分たちもここに世に対してしっかりと立とうとしている、ということです。であれば、私たちも同じ教会の証言者として、このみことばにしっかりと立つべきでありましょう。教会は、水と霊とによって、「キリストの身体」として新たに生まれ変わった共同体です。したがって教会の命の本質は、キリストのご自身の新しい人間性の内にあり、その本質を神の内に持つものです。天から新たに生まれて、天のことばを証言する天の共同体であります。最初の複数一人称「わたしたち」はこうした「一つの霊と命」を共有する教会共同体を背景にした表現であります。この当時、ヨハネとその教会は、主イエスの証言者として、この世にあって、二つの大きな集団と向き合っていました。一つは、ユダヤ教をはじめとする地上に数多くあったさまざまな宗教集団であり、もう一つ一つは、ローマ皇帝を中心とする多くの政治権力であります。こうした過酷な戦いの中で、唯一真正な主イエスの証言者として、教会はその使命を果たそうと、福音の信仰に堅く立ち尽くしていたのです。その証として、かつて主イエスに対して宗教的権力者たちが立ちはだかったように、「3:11わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたわたしたちの証し受け入れない。」という一人称と二人称の複数形としての発言になったと考えられます。しかし本当の問題は、その証言の「内容」にあります。それがついに一人称単数形の「わたし」によって語られます。

他方で、天の国に対して、地上の国であるこの世の私たちには、天の国は全く見えず、知ることも、触れることもできない異質の世界であり、異次元の国であります。ただ、たったひとつ、天からの啓示のことばに耳を傾け、聞き分けること、即ち「みことば」だけが地上の私たちを天に向け、天の真理を知る窓を開くのです。残念ながら、そのみことばを聴くことができないまま、ただ地上を彷徨い、地上での幸不幸を論じ合うばかりであります。

 

2.「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」

一人称単数の「わたし」、すなわち主イエスは、天からの啓示、福音の本質を証します。「3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。』」まさにこの証しこそ、ニコデモとの問答の本論であり、完全な啓示になります。この証言は、明らかに、神のメシアが天から地上に遣わされて、さらに地上での使命を果たしたのちに、天に戻られる、という意味でありましょう。ヨハネ福音書らしく言い換えますと、神のメシアが「天から降る」ことそれ自体が神の栄光を現わす栄光に満ちた「天への上昇」を意味しています。メシアの栄光ある降下と上昇を一つに結び合わせる、栄光の中心となる表現が「蛇を上げる」という言葉です。「人の子」(o` ui`o.j tou/ avnqrw,pou)の使命は、14節で「モーセが荒れ野で蛇を上げた(Mwu?sh/j u[ywsen to.n o;fin evn th/| evrh,mw|)ように、人の子も上げられねばならない(ou[twj u`ywqh/nai dei/ to.n ui`o.n tou/ avnqrw,pou)」と証言される通りです。ここで「降る」(カタバイノー katabai,nw)と「上げる」(ヒュプソォオー u`yo,w)という動詞の意味について一言しますと、興味深いことに、互いに全く正反対の意味する字が、「降る」のは「上げられる」(u[ywsen])ことであり、「上げられる」のは「降った」(kataba,j)からであり、両者相互に意味を補完し合う言葉として用いられていることです。つまり主イエスは、人の子における上昇と下降は「一つの出来事」として語ろうとしているのです。そしてその一つの出来事とは「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ように「人の子も上げられる」とありますように、「モーセの蛇」に象徴される人の子の上昇であり下降の出来事なのです。

 

3.「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」

この「モーセ蛇」の出来事は、言うまでもなく、民数記21章4節以下の記述に基づいて言及された、と考えられます。ご紹介しますと「21:4 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、21:5 神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。』21:6 主は炎の蛇を民に向かって送られた蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。21:7 民はモーセのもとに来て言った。『わたしたちは主とあなたを非難して罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。』モーセは民のために主に祈った。21:8 主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』21:9 モーセは青銅で一つの蛇を造り旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと命を得た。」(民数記21章4~9節)とあります。神は、民の背きの罪に対して、死の裁きを行う蛇を送ります。しかしモーセは、青銅の蛇を造り旗竿の先に掲げて、それを仰ぐと噛まれても命を得た、という話です。蛇の中で、最初に登場する「炎の蛇」は、主なる神が民の罪に対して送った「裁きの蛇」であり、蛇は民をかみ、それによって数多くの者たちが死に、「裁きと死」を象徴しています。次の「青銅の蛇」は、「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」という悔い改めに基づいて、民の命を再生するために造られた「神の赦し」を象徴しています。つまり蛇は、一方で「裁きの死」を象徴し、他方で「赦しの命」を象徴し、相対する二重の意味と働きを担っています。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ように、「人の子も上げられねばならない」とありますように、モーセの蛇のように、人の子である主イエスのうちに、「神の裁きよる死」と「神の赦しによる復活」が同時に引き起こされることが、ここには暗示されています。言い換えれば、主イエスにおける「十字架の死」と「復活の命」を言い表しています。人の子である主イエスにおいて、神の完全な裁きは完了し、それゆえに、神の完全な赦しもまた実現するのであります。その十字架に上がることこそ、主イエスの人の子としての使命であり、栄光の天に上がることでもあるのです。

ここで是非、改めて注意しかつ覚えておきたい点は、罪を犯した民が神の裁きによって死を迎えることは当然のことです。しかし、神の御子である主の栄光が、なぜ十字架の死における神の裁きにあるのでしょうか。なぜ、人の子は「青銅の蛇」即ち「命の再生」という使命を果たすのでしょうか。先ほど、民の悔い改めを前提にした青銅の蛇ですが、悔い改めとは、神に心を向け直して、謝罪することを意味します。言い換えれば、罪の償いである贖罪を前提にします。罪の償いである贖罪なき完全な赦罪も謝罪も存在しないのであります。

 

4.「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

ついに、ヨハネの決定的なメッセージがここで発せられます。「神は、その独り子を与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という神の啓示の全てを言い尽くしたと言える福音です。そしてこう言い切ります。「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」という神の救いのご計画と決意が証言されます。神は、御子を世に与えることで、世を救おうとした、その御子を世が信じることで、永遠の命を得られるようにした、というメッセージであります。

では「神は、その独り子をお与えになった」とは、どういうことなのか、少し踏み込んで、ヨハネ福音書を読み直してみましょう。ヨハネは、福音書を書き始めるその冒頭で、こう記します。「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった言は神であった。1:2 この言は初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と記して、神の独り子とは、先在の「神」であり「言(o` lo,goj)」であり、「言は神であった」(qeo.j h=n o` lo,goj)と証言します。ヨハネはさらに「1:12 しかし、言は自分を受け入れた人その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた。」と記して、神の独り子が、神のロゴスであり、「言は肉となって、私たちの間に宿られた(o` lo,goj sa.rx evge,neto kai. evskh,nwsen evn h`mi/n)」(ヨハネ1:14)と告げています。こうした記述から「神は独り子を世にお与えになった」とは、まずの「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)ことであり、しかも「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)ことが分かります。

この記述から「独り子を与える」とは、まさに「言が肉となった」ことです。神の独り子、ロゴス・キリストの「受肉」を指します。新共同訳は「肉となった」と訳しますが、「肉体となった」或いは「人間となった」ということです。整えて意訳すれば、神が「人間となった」のです。これこそが、キリスト教の人類救済の中核です。神と共に永遠の昔から先在して、万物創造に参与した「神のロゴス(言)」が、即ち「神の独り子」が人間となって人々のうちに宿ることで、人類は永遠の命を得る、という救済観です。なぜ「肉体となる」のでしょうか。つまり、なぜ「神の子」は「人」となって、人の子として世に遣わされなければならなかったのでしょうか。「キリストの受肉」の根本をここでしっかり受け止めておきましょう。なぜなら、人間の罪を赦し、人間に永遠の命を与えて、人類を救済するのは、このキリストにおける新しい人間性、すなわち「受肉の身体」であるからです。ここに神の愛の真骨頂があり、ここにこそ独り子を与えるという根本命題がかかっているからであります。

先週の説教「水と霊とによって生まれる」という話の中で、キリストご自身が、洗礼者ヨハネより「洗礼」をお受けになられた場面に触れました。その主イエスのご受洗において、特にご注目して頂いたことは、洗礼をお受けになったのは主イエス・キリストですが、その主イエス・キリストとは、まさに「聖霊」によって処女マリアから生まれ、人間の心と身体を受けた「受肉」のキリストであります。その受肉のキリストにおける「新しい人間性」に、私たちは注目し、その受洗した「新しい人間の心と身体」に向かって、天が開け、聖霊が鳩のように降り、そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)という天からの声が響く中で、聖別されたのです。神の愛を受けるのに十分に相応しく、神の御心に十分に相応しい「神の愛する子」として聖別されたのです。言い換えれば、それは、直ちに、神の御心とそのご計画に従順に従って主の受肉のご生涯を神にお献げする、ということです。「洗礼」に、聖別奉献の清めの意味が含まれるとすれば、主イエスはこの「新しい人間の身体」を神にお献げする、献身の聖別をお受けになったのではないでしょうか。キリストは十字架の死に至るまで、この「新しい人間性」をもって、神に従順と義を尽くし罪を完全に償い、「贖罪の死」を遂げます。そして三日目に「栄光の復活」を遂げて、その40日後には天に昇られました。この一連の「栄光」を成し遂げられたのは、キリストによって背負われた「受肉の身体」、すなわち「新しい人間性」であり、新しい人間の心と身体、そして新しい人格であります。なぜ、そこまで、肉体となって受肉してまでも、深く神は「人間性」に深くかかわるのでしょうか。それは、御子によって、御子を与えることによって、そして御子の受肉の身体を奉献することによって、人類を永遠の命のもとに新しく(上から)生み、創造するためであります。

私たち人間には、どうしても解決しなければならない「罪」と、その支配によって背負った「死と滅び」の法則です。これは人間の手ではどうしても解決することはできません。ただ罪を償い、そして罪と闘い抜き、罪に完全勝利する外に道はないのです。人類の未来はないのです。言い換えれば、神に背き罪を犯し堕落したその罪の「贖罪」を果たして、神に対する「義」を実現し、罪と死に勝利して永遠の命に溢れた人間になることです。「義」とは、神との正しい関係回復とそれを永遠に維持する保証ですから、背いた神に対して、贖罪を果たし、義を回復し、義を永遠に貫く力が求められます。「命」を回復するための謝罪とその代償とは、即ち「命」を買い戻して贖うわけですから、その等価値の賠償は「命」以外にはありません。それが贖罪の原理です。したがって御子が栄光に溢れて高く上げられるのは、人間として従順に命を支払い尽くして、十字架における贖罪の死を遂げるまで罪を償うのでなければならないのです。とすれば、高く上げられる栄光の高挙とは、従順に贖罪のための命を支払い尽くす十字架の死にによって、初めて実現する「贖罪の死」であります。これこそが「神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という本当の意味ではないでしょうか。神の愛は、人間には絶対に出来ない贖罪を、御子の人間性において贖罪のための命と従順を完全に支払い尽くすことだったのです。したがって、御子にとって、栄光の高挙とは、直ちにその人間性において十字架の死を遂げることになります。それが神の御心であり、神の愛の実現だからです。「人の子」とは、文字通り、神の御子が人間を自らの身体として背負い、神の御心に従順に従って、贖罪の死を果たす人物であります。言わば、神の代理人であると同時に、神の御子が人間に代わって贖罪の死を代行したのです。キリストは、ご自身の人間性において、十字架での贖罪の死を通して、神と人との「和解」を実現してくださったのです。それゆえ主イエスは、ご自身の十字架と復活の人間性において、まさに「仲保者」となってくださったのです。

この主のみことばの教理は、明らかに、ロゴス・キリスト論であり、ヨハネはそれをさらに、ロゴスの受肉としてキリスト論を徹底しています。「神の独り子」が、即ち先在の「ロゴス(言)」が、主イエスという「受肉の身体」において、天から地に降下し、同時にまた地から天に上昇していることを意味しています。人の子である主イエスの人間性を通して神の国は地に到来しており、主イエスの人間性に包まれて地は既に天に向かって上昇するのです。言い換えれば、主イエスのお身体のうちに、十字架の死に至るまでの御子の従順を尽くした償いがあり、主イエスのお身体のうちに、神の義と祝福にあふれた栄光の復活と永遠の命が湧き出ているのです。この御子の身体、御子による新しい人間性に与る、移し替えられること、パウロの言葉で言えば、キリストを着ることを通して、私たち地上の人間は、キリストの身体という新しい栄光の人間性に生まれ変わるのであります。この受肉のキリストにおける新しい人間性において、まことに鮮やかに、神の国は実現しているのであります。

 

5.結語

清めの水、そして人間を根元から造り変える霊の力、この水と霊とが一体となって働く神の神秘のみわざ、それが「洗礼」でありま。「洗礼」を通して、「罪」は清められ「聖霊」が内に宿ります。そして私たちの心身の中枢において、まず「信仰」が賜物として与えられ、信仰を通して「みことば」を聴き分けて深く神の愛を味わい知ることができるようになり、益々信仰を通して、私たちは内側から新しいキリストの人間性へと造り変え、生まれ変わらせ、養わるのです。水と霊とによる「洗礼」は、そのようにして、私たちをキリストの身体に結び合わせ、キリストの身体として新たに誕生させるのです。

私たちが水と霊とによって生まれる変わるためには、神はどうしても独り子を私たちのために与える必要があったのです。それが神の愛でした。そして御子もまた、従順に、世の罪を贖うためにご自身のお身体においてその命の全てを贖罪の犠牲として支払いつくしたのであります。だからこそ、主イエスご自身から、洗礼をお受けになり、洗礼という秘儀そのもののうちに、受肉のキリストとして新しい人間性を与える奉献の場とされたのではないでしょうか。まさに神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されたのです。そしてその御子の犠牲により、水と霊とによって生まれる新しい人間性のもとで、私たちは死の裁を過ぎ越して、永遠の命の冠をいただくのであります。

2021年6月20日「水と霊によって新しく生まれなければ、神の国に入れない」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 6.20.小金井西ノ台教会 聖霊降臨第4主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教3

説教 「水と霊によって新しく生まれなければ、神の国に入れない」

聖書 ヨハネによる福音書3章1~21節

 

 

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。」

 

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない霊から生まれた者も皆そのとおりである。」3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

 

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証し受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 

3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来るその行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

 

はじめに.  ラビ、ニコデモによる夜の訪問

本日、分かち合うみことばは、ヨハネによる福音書3章1~21節「ニコデモと主イエスの問答」です。実は説教を準備する段階で、このテキストを一纏めにして一気呵成に説教すべきか、或いはいくつかの段落に区切りながら取り扱うべきか、迷いました。と申しますのは、この世に支配されたわたくしども人間に、果たしてどこまで、天の神の御心をと理解することができるだろうかか、ましてや語り解き明かすことは、余りにも難しいことが多くて、天上の奥深い「啓示の真理」を伝え切ることは不可能なこと、と戸惑うのです。最初は、限界を前提に、テキスト全体を鷲掴みにして一気に福音の本質に迫るメッセージを模索する方がよいのではないかと考えましたが、後になって、重要な要点を割愛してしまうことになってはいけないと思い直して、本日を迎えました。そこでやはり重要と思われる要点を段落ごとに整理しながら、解き明かしを順次進めてゆくことにしました。第一の区切りは1~9節で「水と霊によって新しく生まれる」ことについて、第二段落は10~15節で「天から降られた人の子」の真相について、そして最後は16~21節で「天の父による救いと裁き」について、という三つのテーマに分割した形で講解を進めようと思います。したがって本日は第一の「水と霊によって新しく生まれる」ことに集中し、来週は「人の子の秘儀」と「神の愛」の啓示についてお話したいと思います。

 

ニコデモと主イエスとの対話の主題は「水と霊とによって新しく生まれる」ということです。「新たに生まれる」とは、いったいどういうことか、何を意味するのか。これを論ずる上で、事前に一つ、決定的なお断りをしておく必要があります。それは、単に「精神」や「思想」上での転向を意味するものではない、ということです。近代現代の精神は、何もかも合理化して解釈してしまうおうとするのですが、ここでも「新しく生まれる」ということを合理化して、精神的思想的に自分の立場を変えること、として軽く解釈してしまうのです。しかし、ここでの主イエスとニコデモとの対話は、決して単に精神や思想上の転向にとどまるものではなくて、遥かに超自然的な超越次元での新生を問題にしています。真実な意味で「人類救済とは何か」という神による真理を真摯に求めているからです。そういう意味で、主イエスもニコデモも、とても真剣に、神と神による救いを問題にしています。残念ながら、結果として、ニコデモの思いは「受肉のキリストによる救い」という福音に到達することは出来ずに終わってしまいますが、しかしそれでも、ニコデモが人類救済の真理を探り求めていたことは否めない事実であって、わたしは尊敬に値する行動であると思います。したがって皆さんが説教をお聞きいただく上で、新しく生まれるとは、単に思想上の転向を意味する、というような合理主義的解釈にとどまらないでいただきたいのです。確かに、理解することに困難がありますが、それでも、真摯な探求心をもって、さらに奥深く踏み込みながら、主イエスのお語りになる「啓示の真理」に迫っていただきたいと願います。

 

さて、ヨハネはここに、ファリサイ派でサンヘドリンの議員でもある、言わばユダヤ社会で非常に権威あるニコデモという人物を登場させて、主イエスとの問答形式を取りながら、まさに「救いの真理」を集中的に解き明かそうとしています。3章1節では、まず問答の相手となるニコデモについて、こう紹介して、登場させます。「3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。」とあります。

ニコデモという人物は、ヨハネによる福音書の中にだけ僅か3回登場します。一度目はここで、人目を忍ぶ夜の訪問者として、二度目は7章50節以下で「7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ判決を下してはならないことになっているではないか。』」と主張して、主イエス本人に確認を得る前に罪に定められない、と抗議します。そして三度目は19章38節以下で「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。19:40 彼らはイエスの遺体を受け取りユダヤ人の埋葬の習慣に従い香料を添えて亜麻布で包んだ。」と記されており、人目を恐れるどころか、アリマタヤのヨセフに進んで協力し、敢えて危険を冒しながらも、主イエスの葬りのために共に働く姿が描かれています。こうした記述から、ニコデモは非常に良心的な教師であり、主イエスの教えを正しく理解することができないという破れと苦悩を背負いながらも、しかし主イエスを心から慕い、神から遣わされたお方として、尊敬を保持し続けた人物であると考えられます。ニコデモが主イエスを尊敬するに至った動機にについては、ニコデモ自ら、主イエスを「ラビ」(先生)と呼んで、こう語っています「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。」つまり主イエスが奇跡を行う現場を彼は目撃していたのです。しかし直前の2章23節以下ではこうも記されています。「2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかしイエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは何が人間の心の中にあるかよく知っておられたのである。」と、ヨハネは釘をさすかのように、前もって「イエスご自身は彼らを信用されなかった」と明記しています。おそらくニコデモも、こうした人々の一人であった、と考えられていたのだと思います。ヨハネは、ニコデモの人間性とその本質をある意味でよく示す編集句でこう纏めたのですが、たとえ奇跡を信じ、主イエスが神から遣わされた方と認めることが出来たとしても、人間性の「本質」そのものが、「生まれ変わる」のでなければ、人は救われないのだ、ということを、主イエスは見通していたことが分かります。そしてヨハネとその教会もそう考えたと思われます。そうした疑いと危うさの中に、ニコデモは夜人目を忍ぶようにして登場します。

 

1.「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

ニコデモは、はっきりと主イエスが神から遣わされた教師であることも、主イエスの行われた奇跡が神のみわざによるものであることを認めていました。再度確認しますが、「あなたが神のもとから来られた教師である」「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」とはっきりと告白しています。それなのに、先ほどのヨハネの編集句に先取りして明記されていたように「そのなさったしるしを見て多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかしイエス御自身は彼らを信用されなかった」のです。したがって主イエスはきっぱりとニコデモに告げます。即ち「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と宣告します。率直に言えば、あなたはまだ新たに生まれていないので、神の国に入ることはできない、という宣告になります。ここで重要な言葉は「新たに生まれる」という言葉です。「生まれる」(genna,w gennhqh/|)という元の字はアオリスト受動態で、「新しく」(a;nwqen a;nwqen)とは「上から」という意味を含む副詞です。つまり上から新しく生み出されることを意味します。自分で自分を産むのでもなく、自分から自分が生まれるのでもありません。「上から」即ち「天から」、地上とは質的に異なる仕方で、全く新しく命と存在を与えられて生み出されるのであり、しかもこの誕生が永遠不変の出来事として起こることを意味します。「神の国」とは、神がご主権をもってご支配することですが、敢えてその対立概念を想定すれば、悪魔の唆しによる罪の支配であり、死と滅びに運命づけられた世界です。問題は、どうすれば、そうした悪魔や罪の支配から、死と滅びに運命づけられた呪いの世界から解放されて、神のご支配のもとに、不変不動の新しい命と存在が与えられて新生することができるのか、ということです。「新しく」とは「上から」即ち意訳すれば「天から」であり、さらに主の教えに従えば、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ということになります。

 

2.「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』

残念ながら、ニコデモには「新しく生まれる」という意味を理解することができませんでした。ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と言って、主イエスに反論します。ニコデモの反論をよく見ますと、ある重要な共通概念が彼を支配していることに気付きます。まずニコデモは「をとった者」と表現しています。「年を取る」のは「時間」に束縛支配され、時間に敗北した結果として、引き起こされる「生の変質」であり、「命の腐敗」であり、最終的には完全喪失して消滅することを意味します。つまりニコデモは、時間を超える「永遠の存在」を知らない、否、認めていないのです。アウグスティヌスは「時間」も「被造物」であることを暗示していますが、言い換えれば、時間という世の造られた物の奴隷となって支配を受けていることが分かります。「永遠」を本当の意味で信じ求めていないので、本気で「永遠」の次元に心を向けることができないのです。ただ時間の制約と束縛の中で、可能な限りでの「救い」や「神の支配」を想定していたようです。つまり相対的な命や救いの範囲で「神の律法」を取り扱っていた彼の本音が見え隠れしています。そうなると、律法学者や教師として彼の律法解釈においても、そうした相対主義や諦観が混入することは免れないと思います。

もう一つ、非常に深刻な問題は、「母親の胎内に入って生まれる」と言っています。ニコデモにとって、「生まれる」という出来事は「母の胎内に入る」外に成立しない出来事のようです。人が誕生するのは、神の霊的な恵みのみわざによる、まさに「上から」新たに生まれるのではなくて、父と母との肉体的な生物の中で生起するわざでしかあり得ないことになります。単純に問えば、ニコデモにとって、神の存在も神の創造もいったいどう解釈されるのでしょうか。神は、霊とみことばに基づいて、万物を無から創造した「神の無からの創造」は、ニコデモにとって単なる空想物語であり、神話に過ぎなかったのでしょうか。ニコデモは、ファリサイ派の律法学者なのに、聖書をただ字面だけで律法にはこう書いてあると言って、律法学者として形式上はその職務を貫くことができても、彼の心を支配し続けていたのは「時間」の支配であり、全てが老いて消滅しゆく「滅びの支配」であり、母の胎を失えば誕生はありえないとする極めて単純な「生物」論的肉体主義であり物質主義である、と思わざるを得ない場面です。そうした彼の思想的限界と矛盾の中で、どうすれば「上」からの恵みとして新しい命に生まれるという問題は、受け入れられ了解されるでしょうか。「新しく生まれなければ」などということは、ニコデモには思いもつかないことででした。ここでいよいよ不思議に思うことがあります。実はファリサイ派の教えに「復活」があったはずですが、その確信も危うくなります。もしかしたら奇跡としてそういうこともありうるという程度で、本質的な救済論として人間の復活がある、というその意味づけも、また救済論的教理体系も、ファリサイ派の中では全く共有されてはいなかったのかも知れません。だからこそ、ニコデモはファリサイ派の人目を恐れつつも、その枠を超えて、イエスのもとを訪問する必要を感じていたのかも知れません。

 

3.「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

しかし主イエスは、それでも、誠実を尽くして、ニコデモに真正面から「新生」について改めて諭そうとなさいます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)と繰り返し解きます。その際に、注目すべき点は、主イエスが「新しく」すなわち「上から」と仰せになられた言葉を、ここで改めて、より正確かつ具体的に「水と霊とによって」という言葉で、表現し直しておられることです。言わば、「新たに(上から、天から、或いは、神から)生まれる」という表現を、さらに具体的に地上にあっては「水と霊とによって」生まれると言い直して、諭そうと試みておられます。つまり「生まれる」という「命の本質」を決定づける根元は、時間の中にも肉体の中にもなく、「水と霊」の中から生じる出来事として、表現して救いの本質と根拠を具体的に暗示しています。主イエスは、さらに諭すように説明を加えます。「3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と丁寧に説いて、地上を支配する時間や物質から見ようとせずに、永遠は永遠から、命は命の賦与者である全能の神の霊から、真の命や真理を見るのでなければ、理解することはできないのではないか、と諭されるのであります。主イエスのみことばで、とても意味深い表現は、神の霊による恵みを「風」に喩えて、「思いのままに吹く」と語ります。他方では「あなたはその音を聞く」とも語ります。つまりたとえ神の霊の働きはよく分からなくても、神の霊の働きの結果に生じた出来事は、聞くことも見ることも、そして与ることもできるはずだ、と教えています。ただし、霊それ自体の「思い」やその意図するご計画の全貌については、「どこから来て、どこへ行くかを知らない」、即ちそれを理解することはできない、というわけです。万物は、結果として生じる神の創造の恵みを最大限に豊かに享受することは出来ても、神の創造の神秘の中枢を、特に神が何をどのように意図し計画されるかは、知ることはできないのです。それは、ただ神のご主権に基づくからです。残念ながら、これに対してニコデモは、いよいよ主のみことばを理解できなくなってしまい、率直に「どうして、そんなことがありえましょうか」と言って、ただ反語否定を繰り返すばかりでした。

 

4.主イエスの説教とヨハネの教会の信仰

ところで、なぜヨハネは、この問答に、わざわざニコデモを登場させたのでしょうか。それには大きな意図があった、と思われます。律法学者でありユダヤ教の宗教的権威であるニコデモは、ユダヤ教の象徴的存在です。前回も申しましたように、ヨハネが福音書を著わす目的は、新しい「神の啓示」そのものである人の子としての「イエス・キリスト」を世界宣教することでした。大胆に言えば「キリストの到来」において、神の救いのご計画は旧約時代の預言から新約時代の成就へと移り、ユダヤ人たちだけの選びから全世界の人々の救いが実現する福音の啓示へと新たに転換しました。ユダヤ教をはじめローマ帝国との相克の中で、キリストにおける新しい啓示は、ヨハネとヨハネの教会がよって立つべき「信仰の中核」でした。「水と霊とによって新しく生まれる」という決定的な救いの開示は、主イエスご自身の決定的な福音のみ言葉でもありますが、同時にまた、ヨハネとヨハネの教会を根底から支える重要な信仰告白であり、命と希望の源泉であったと考えられます。

人が救われるためには、三つのことが求められます。一つは、ニコデモのように、ただ律法を守り奇跡の力を期待するのではなくて、神の奇跡の本質であり、命と救いの根源となる「イエス・キリスト」ご自身について、正しく信じ受け入れることが、新たに求められます。ヨハネはこの直後に13節以下で「3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」という主イエスの説教を展開している通りです。二つ目は、このイエス・キリストの真理を信じ受け入れる「信仰」を通して、信じる者自身が「新たに生まれ変わる」のでなければならない、ということです。しかし、その信仰を純粋に受け入れて、信仰に正しく与り、新たに生まれ変わるためには、「聖霊」の働きとその恵みによらなければなりません。厳密に言えば、「聖霊」の働きを通して、主イエスのみことばの真理を深く悟る者となる必要があります。しかもみことばの真理を悟り、信仰を通してキリストの新しい人間性に与ることで、新たに生まれるのです。このこともまた、ヨハネは18節で「3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」とさらに展開します。したがって、私たちが「新しく生まれる」とは、つまり「神から」新たに生まれるには、どうしても、悔い改めをもって「水による洗礼」に与り、「霊」の恵みに与り、キリストの信仰に堅く立つのでなければならないのです。

 

5.水と霊とによって生まれた新しい心身と人間性

水と霊による出来事は、言うまでもなく、「洗礼」の出来事以外にないように思います。マルコによる福音書によれば、主イエス・キリストは、「1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と証言した洗礼者ヨハネから、ご自分から洗礼をお受けになりました。主イエスの洗礼の出来事についてマルコは「1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、『あなたはわたしの愛する子わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と記します。この記述によれば、洗礼をお受けになった主イエスは、明らかに、天から降って来た「聖霊」を受けます。つまり、主イエスにおいて、「水」による洗礼とは、直ちに天から降って来る「聖霊」を受けるしるしであったことが分かります。第二に、洗礼を受けられた主イエスに対して、「あなたはわたしの愛する子わたしの心に適う者」という天からの声が響き渡ります。ここではまた、主イエスの水と霊とによる洗礼が、天から神によって決定的な承認宣言を受けるという出来事が続きます。

この記述は、当然ながら永遠の「神の御子」の受洗を伝えるものですが、しかし、ただ単に主イエスの洗礼を証言するだけではなく、さらに大切な点を厳密に言えば、単なる永遠の「神の御子」ではなくて、聖霊によって処女マリアから新たに創造された「人間の身体」を受肉したイエス・キリストの受洗である、という点を見逃してはならないと思います。御子が「受肉の身体」をもって水による洗礼をお受けになっているのです。つまり丁寧に言えば、単に「御子」がここで洗礼を受けたのではなくて、聖霊によってマリアから受肉して新たに創造された「人間の身体」をもった主イエスが、ここで洗礼をお受けになっておられるのだ、ということに注目すべきではないでしょうか。教理的に言えば、キリストの神人両性が一体となった「受肉のメシア」として、堕落したアダムに対する「新しい人間存在」の原型として、今まさにこの洗礼において、天の神によって聖別されているのであり、天はそれをまさにここで地に啓示した瞬間であった、ということではないでしょうか。主イエスにおける「新しい身体」であり、「新しい人間性」の誕生の宣言告知であります。この受肉のキリストにおける新しい人間の誕生に対して天から力強く表明された神の祝福宣言でありました。これこそが、文字通り「水と霊とによって生まれた」キリストにおける「身体」であり、キリストにおける「新しい人間」であります。このように、キリストにおける「新しい人間の身体」とは、まさに「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来る」身体であり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から義の宣告を受ける人間性であります。これはまさに、キリストにおいて、人間の新しい誕生の宣言に外ならないのではないか。そうしたキリストにおける新しい人間の誕生にこそ、父なる神の大きな人類救済の御心が貫かれており、神はそれを天からの声として啓示し宣言されたと思われます。

キリストは、そうした神の壮大なご計画に応え、ご自身の使命として、ご自身が受肉した身体において、洗礼者ヨハネから水による洗礼をお受けなりました。そしてヨハネは、明らかに、その受肉した神の御子における救いの中核となる秘儀を教会よって立つべき基盤としていたはずです。私たちも、洗礼を通して、この受肉のキリストにおける洗礼をそのまま受け継ぎ、そのままその恵み溢れる神の祝福に与るのであります。洗礼を通して、聖霊の働きに導かれ、信仰が与えられ、信仰を通してみことばの真理を深く悟り、いよいよ内側から「キリストの身体」として新たに創造されて、滅びから永遠の命へと祝福に溢れた新しい人間性に生まれ変わるのです。ちょうど処女マリアが聖霊によってキリストを宿したように、私たちも、聖霊の賜物である信仰を通して「キリストの身体」が内に成り、内側から新たに創造され、新しい人間性へと造り変えられるのです。水と霊とによって生まれるとは、こういうことではなかったかと思うのです。ヨハネは、ニコデモをわざわざ登場させつつ、そこで徹底的に「水と霊とによって生まれる」新しい人間性の本質を明らかに解き明かそうとしたのす。弟子たちは、キリストへの方向転換を表明するその悔い改めの水をかぶり、聖霊を受け、心身共にキリストにおける新しい人間性に生まれ変わり、キリストの身体と一体に結ばれたのです。水による洗礼を通して聖霊を受け、キリストにおける新し身体に与り、新しいキリストの身体の肢体とされる、そこに水と霊とによって生まれる新しい人間の誕生があります。

2021年6月13日「父の家を商売の家にしてはならない」 磯部理一郎 牧師

 

2021.6.13 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第4主日

ヨハネによる福音書講解説教2

説教 「父の家を商売の家にしてはならない」

聖書 エズラ記5章6~17節、詩編69編10節、列王記上8章1~10節

ヨハネによる福音書2章13~25節

 

「詩編69:10 あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。」

 

「ヨハネ2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。

2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。

2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らしその台を倒し

2:16 鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家商売の家としてはならない。』2:17 弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。

2:18 ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。2:19 イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』

2:20 それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、

2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」

 

 

はじめに. 問題の所在:過越の祭りにエルサレム神殿に詣でる主イエス

「過越の祭り」はユダヤの暦でニサンの月15日に、太陽暦に直しますと、4月の中旬頃に始まります。ヘブライの人々にとって決定的なユダヤ解放の歴史事件となったモーセの「出エジプト」を記念する祭りで、ユダヤ3大祭りの中でも最も重要な祭りが始まるのです。「過越の祭り」では、「過越の子羊」の儀式と元々農耕を起源とする「種を入れないパンの祭」(農耕祭)が併合されて行われていたようです(出34:25,民28:16‐17,エゼ45:21等)。家庭では、この過越の食事のために、家族の人数に応じて傷のない一歳の雄の子羊が選ばれ,14日の夕暮に屠られ(出12:6,レビ23:5)、その血は家の門柱とかもいに塗られ、子羊の肉はその頭も足も内臓も火で焼かれ(出12:9)、その骨を折ることは許されず(出12:46)、その肉は種を入れないパンや苦菜と共に規定通り(出12:8)に食されますが、翌朝まで残してはならず、朝に残されたものは火で焼かれました(出12:10,34:25)。主イエスは、十字架につけられる直前に、この過越の食卓に弟子たちを招き、所謂「最後の晩餐」として、ご自身こそが過越の犠牲の小羊であり、主の十字架の犠牲によって、人々は死を過ぎ越して永遠の命に至るという神の新しい契約となると約束して、聖餐の食卓は基礎づけられ、弟子たちに分け与えられました。シリア・パレスチナに住む19歳以上の男子は皆、神殿で犠牲を献げるために、エルサレム神殿に向かうなければなりませんでした。巡礼者として大勢の「ディアスポラのユダヤ人たち」も世界中から集まって来たようです。ある註解書は「225万人もの多くのユダヤ人が、過越を守るために『聖都』に集まった」(ウィリアム・バークレー著/聖書註解シリーズ5『ヨハネ福音書上』1968, 149頁)と記しています。神殿で犠牲奉献には、二つの重要な掟がありました。一つは、半シェケルの「神殿税」を支払うことで、そのために、人々は何割かの高額な手数料を支払って「神殿シェケル硬貨」という特別な硬貨に両替しなければなりませんでした。神殿税の半シケルとは、当時の2デナリオンに相当し、今で言えば凡そ2万円前後でしょうか。もう一つの掟は、犠牲を献げることで、そのためには、生贄となる動物を神殿の前庭で買い求めることでした。神殿に献げられるには、清いものが選び抜かれますので、この売り買いは厳しく神殿によって管理運営されていたようです。このように神殿運営を握る宗教的権力者たち、神殿祭司や律法学者たち、それに付随する特権を得た関係者たちは、自分たちの都合よいように律法規定を解釈し神殿運営をすることで、膨大な富を手にしていたのです。たった一年に一度の過越の祭りで、ひとり2万円の神殿税であれば20万人で40億円、200万人であれば400億円となります。これに手数料が加わり、予想のつかないほどの収入となります。そればかりか、生贄動物の売買から生じる利益も高額の収入となっていたはずです。言わば、一部の特権階級が膨大な富を私物し独占するために、神の律法に従順に仕え従おうとする信仰を、また純真な神を礼拝するための神殿を深く傷付け汚しいたことは明らかで、誰の目にも抵抗できない大きな宗教権力による腐敗として映っていたのではないでしょうか。

 

1.神殿礼拝の腐敗を糾す主イエス:「わたしの父の家を商売の家としてはならない」

ヨハネ福音書2章13節以下は「ヨハネ2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。2:15 イエスは縄で鞭を作り羊や牛をすべて境内から追い出し両替人の金をまき散らしその台を倒し、2:16 鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」と記しています。

ヨハネによる福音書は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書と比べますと、異邦人にもエルサレム神殿の情景が分かるように、「過越祭」にわざわざ「ユダヤ人の」と説明句を付け加え、またユダヤ人には不必要と思われる両替や生贄動物を詳細に伝えます。また共観福音書の「宮清め」は、主イエスの十字架の直前に行われており、福音書の終わりに登場しますが、ヨハネは福音書の初めに置いています。ヨハネは、物語の経緯を順序正しく辿るというよりも、福音書の中核となる「メシアの到来」を鮮やかに証しする、という福音の本質を異邦人にも分かるように展開して指し示すことに集中しかつこだわり、福音書を記述しています。どんな出来事も、金太郎飴のように「神のメシア到来」をくっきりと描き出すように、つまり神の福音の決定的メッセージの中心に常に向かうように、福音書を構成し直したのではないか、と想定されます。その結果、「宮清め」という出来事を「キリストのご復活」と「神殿の再建」に直結させながら、主のみわざの真相を福音の本質から明らかにしようとします。言い換えれば、なぜ主イエスは「宮清め」とは何か、それはすなわち、主イエスご自身のお身体そのものによる栄光のわざである、というように、「宮清め」の中に、神の啓示の本質を明らかに指し示そうとするのです。

さて、まずここで問題となるのは、言うまでもなく、神殿の腐敗です。神殿の腐敗と申しましても、建物や動物に問題があるわけではありません。あくまでも腐敗は「神殿」そのものではなくて、神殿の運営をめぐる人々の心と信仰にあります。ここでは、主イエスによって、信仰や信仰心の内容の本質が厳しくかつ根本から問われているばかりか、徹底的に糾弾されています。神殿運営をめぐる腐敗した形を、主イエスは、父の家を「商売の家に」(oi=kon evmpori,ou)した、と言っています。神殿本来の機能である「神を拝む」礼拝の場が、聖職者たちが富を自分の物にするために「商売する」欲望の場に変質させた、と主イエスは糾弾しました。共観福音書の表現はさらに厳しい表現で、「商売」でなく、「強盗の巣」(sph,laion lh|stw/n)となっています(マタイ21:13「あなたたちは/それを強盗の巣にしている」マルコ11:17「あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」ルカ19:46「あなたたちはそれを強盗の巣にした」)。「強盗の巣」という語は、最早人間ではなく野獣の住む穴(sph,laion sph,laionで暮らす強盗盗賊(lh|sth,j lh|stw/nという意味です。ここには、主イエスの驚く程の強い憎しみと激しい怒りが露わにされています。主イエスのお言葉の中に、神の啓示を認めてこれを読むのであれば、まさに神の啓示は、まさに非常に激しい怒りをもって、神殿の中枢にある者たちに臨んでおられる、ということになります。

我に返りつつ謙遜にこれを読みますと、これはユダヤ人の話であってキリスト教会の話ではない、とは言い切れないのです。この「宮清め」のテキストは、果たして、私たちの教会に適応する余地は全くない、と言えるでしょうか。私たちキリスト教会で言えば、教会の構成する人々の信仰と良心もまた同じように問われているのではないでしょうか。教会も、神殿も本来は純粋に神さまのためのものなのに、教会の組織や営みを自分の富や名声など自己都合で利用し、自我欲求を満たすために私物化して、自分のものにしていることは果たして全くないのでしょうか。「強盗の巣」「商売の家」という言葉で言われると、それはないだろう、と感情的に反応してしまいますが、謙遜に深く思いを致しますと、本当に私たちのキリスト教会は、「強盗の巣」になってはいない、と果たして言い切れるのでしょうか。宗教や信仰の名のもとに、教会や集会を自我の承認欲求を満たす場にしてはいないのでしょうか。教会は自分の気持ちや思いを満たす所でしょうか。果たして特定の教会や人々がキリスト教会の資産や人々の心を支配してはいないでしょうか。住む家もなく生活保護に頼る牧師家庭や信徒はないでしょうか。その一方で巨額の富を教会やキリスト教施設を通して得ている人はいないでしょうか。教会幼稚園や保育園は私物化されることはないのでしょうか。あるいは教会の制度や役職や権限、そうした特権や教会の資力財力を利用して、多大な影響力を行使して、権限のない弱い人々を支配したり、自己都合や自我欲求を満たすために利用する者はいないでしょうか。一見、正当と見える人道的な言葉を巧みに用いて、実はその本質で、醜い奪い合いや潰し合いはないのでしょうか。信仰とは、ただ神に感謝を献げ、ただ神のみを主権者とすることであって、自我欲求のために、神の名を利用し神のものを掠め取ることではありません。この宮清めのみことばを通して、現代のキリスト教会においても、今まさに権力化し腐敗した神殿の中枢が、キリストによって鋭く裁かれているのです。神殿という信仰の中枢に「強盗の巣」を成すように、わが物顔に独占支配する権力者たちの姿を、主イエスは鋭く見つめ、激しく怒り、痛烈に糾弾しておられるのです。私たち教会の中にもまた、主イエスと主のみことばを通して、絶えず「宮清め」が厳しく求められているように思われます。

 

2.そもそも「神殿」とは何であったか

ところで、そもそも、イスラエルにおいて「神殿」とは何であったのでしょうか。まず歴史からお話しますと、エルサレムに立てられた神殿はこれまで主に三つありました。ダビデ王の意向を受け、後継者ソロモン王が紀元前950年にエルサレムに建立した最初の神殿が「ソロモンの神殿」です。しかしながらバビロニアのネブカドネザルによって破壊され、民はバビロンへ捕囚されました。その後、捕囚から帰還した民は真っ先に、紀元前520年頃に神殿を再建します。それが「ゼルバべルの神殿」です。そして三つ目は、ヘロデ大王によって紀元前20頃に再建着手された「ヘロデの神殿」です。本日のヨハネ福音書に登場する神殿は、この三つ目の「ヘロデの神殿」です。その神殿の構造については詳しくは分かりませんが、配布プリントにお示したような構造になっていた、と考えられています。「異邦人の庭」とある所で、神殿税の両替や生贄動物の売り買いが為されていたようです。

神殿の構造で、最も重要な場所は「至聖所」と呼ばれる場所で、「至聖所」には「十戒」を刻んだ二枚の石の板が収められた「契約の箱」が置かれました。これが神殿の中核であり、神殿を神殿とする根拠拠点です。この契約の箱に、すなわちこの契約のことばの上に神は臨在すると考えられ、最も聖なる場所と定められ、祭司以外は近づけなかったようです。祭司であっても一年に一度だけ、「贖罪の日」に大祭司だけが生贄の血によって清められて入ることが許されました。契約の箱に収められた「十戒」は、モーセを通してシナイ山で神と民とが交わした「契約」であり、このことばを守ることにおいて、神は民の神として民を平和に守り、命の祝福に導くのです。

「神殿」という新約聖書用語について申しますと、邦訳ではふつう「神殿」「宮」と訳されますが、ギリシヤ語には概ね二つの用語があります。邦訳には明確な区別はないようですが、祭司以外は立ち入ることのできない、所謂「至聖所」を含む神殿は「ナオス」(nao,j)という用語が用いられます(マタイ27:51,マルコ15:38,ルカ23:45)。それに対して、先ほどの異邦人の庭に至るまで、広く神殿全体を指す場合は「ヒエロン」(i`ero,n)という字が当てられることが多いようです(マタイ4:5,21:12,24:1,マルコ11:15,27,ルカ4:9,19:45,20:1,21:5,ヨハネ2:14)。今日のヨハネ福音書では「神殿の境内で」(evn tw/| i`erw/|)と訳されていますが、この「ヒエロン」という広く神殿全体を総称する字が使われています。

神殿建設の目的についてですが、つまりユダヤの民はなぜ神殿を建築したのか、神殿建立の神学的根拠ですが、列王記上8章はこう記述しています。「8:1 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。8:2 エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。8:3 イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、8:4 主の箱のみならず臨在の幕屋も幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。8:5 ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。8:6 祭司たちは主の契約の箱を定められた場所至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れケルビムの翼の下に安置した。8:7 ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。8:8 その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。8:9 箱の中には石の板二枚のほか何もなかったこの石の板は主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。8:10 祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。」とあります。

こうした記述から、明らかに、神殿建築の目的は神の律法(トーラー)の中核を成す「十戒の安置」にありました。この「十戒」という契約のみことばの上に、即ち神の命令のみことばの上にのみ、神は生きて働き現臨する、と考えたのです。つまり契約の箱の上に現臨する神のみ前で、イスラエルは、国家全体をかけてまた全民族も命を尽くして、神との契約を立て、契約を守り抜く、そこにのみ神の祝福と平和は保証されました。「十戒」という神の言葉を通して働き現臨する神の命令に聴き従うこと、それが神殿建設の目的でした。しかし問題となるのは、この神の律法に対する「違反」行為です。神の律法に対して即ち神に対して、人々が犯す「罪」をどう処理して神の御前に出るか、ということにありました。そこで、神の御前で、犯した罪に対して厳格厳密に罪を償い贖う、という「贖罪」の儀式が求められました。そうでなければ、聖なる神は穢され、神の民の平和も祝福も直ちに失わてしまい、神の怒りと裁きにあう、と考えたからです。これが律法主義の根底にある思想であり、捕囚以降の後期ユダヤ教の考え方です。イスラエルが滅び、バビロン捕囚の辛酸をなめた、その理由は民の、否、民族全体による国家的な「罪」ゆえであり、神の律法を犯したゆえに「神の裁き」を受けた、とそうイスラエル再建を求めた律法学者たちは深く悔いたのです。そこでエズラやネヘミヤをはじめ神殿再建に着手した人々は、いよいよ律法を厳しく遵守する、そして罪を犯せば厳しく神の御前での贖罪の道を求めたのです。その結果、罪を贖うためには、牛や羊、鳩などの数多くの動物の命が毎日のように生贄として祭壇にささげられなければならなかったのです。律法を堅く守ることの上にのみに、神の祝福は得られると堅く考え、律法を遵守しようとするのですが、結果的には罪を犯すことになり、多くの動物の命による生贄を必要としたのです。こうした、いわば救いのない「贖罪」儀式の繰り返しには、終わりがなく、延々と続く宗教生活であります。宗教に熱心に生きようとすればするほど、罪とその贖罪のわざは延々と続くのです。これほど悲しいことはないのではないかと思います。ただ罪と裁きと絶望の中で、毎日動物の生贄を献げ続けなければならないイスラエルの民の良心は深く病み、傷ついていたのではないでしょうか。パウロの叫ぶような嘆きからも窺い知ることができます。ローマの信徒への手紙7章でパウロはこう訴えています。「7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」と、終わりのない地獄のような延々と続く律法生活を告白しています。しかし神殿運営の特権階級にある聖職者たちは、この民の「罪の苦悩」を逆手に取って、神殿税や動物売買を通して、巨大な富を得ていたのです。

 

3.「贖罪の身体」としての神殿:「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」

そうした神殿運営をめぐり、神の民は深く傷つき病んで、しかし絶望しつつも、いよいよ従順かつ熱心に、神殿税を支払い、動物を買い求めては贖罪の犠牲を献げ続けなければならず、罪人の深い「魂の破れ」とその呻きの祈りを、主イエスはいつも聞き続けておられたのではないか、と思います。しかも大祭司や律法学者を初めとする宗教的権力者たちは、その贖罪の犠牲を献げるための税を課し、生贄の売り買いを設け、神殿運営を利用しては、痛む民を食い物にして莫大な富を得ていたのです。この民の悲痛な律法と罪と犠牲の連鎖の中で、民をどう救えばよいのか、主イエスは胸を深く痛め、その憐れみと同情はやがて強烈な怒りとなって爆発します。ついに主イエスは宣言されます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と、そうはっきり言い切って、神の御心を民に啓示します。

こうした主イエスとユダヤ人との論争について、聖書は「2:17 弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。2:18 ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。2:19 イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ三日で建て直してみせる。』2:20 それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。2:21 イエスの言われる神殿とは御自分の体のことだったのである。2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」と記しています。

いよいよここで一気に本日のみ言葉の結論に直行すれば、主イエスはまさに、「あなたがたのために私自身のからだを永遠の贖罪の生贄としよう、そしてあなたがたの罪を完全に赦してあげよう」と宣言したのです。いくら胸を叩いて懺悔の祈りを重ね、そして無限に動物の血を生贄として流しても、罪は解決できないのです。完全に罪を償い、完全な贖罪を実現することは、だれにもできないことであります。罪を「原罪」として、人間本性の根源に本質的に背負う人間には、解決できない絶望的な課題であります。神の御子が受肉して人間本性をその根源から背負い尽くして、贖罪の身体となって、十字架において永遠の生贄の犠牲として自己を捧げる、その外には道はないのです。つまり十字架と復活の身体である主の身体による外に、神の御前に完全な贖罪を果たして神を礼拝できる神殿は他にはないのです。キリストの十字架の贖罪なしに、本当の意味で神の礼拝は成り立たないのです。悪魔の唆しと罪に支配された人間性には、神を心から信じ神を神となす、という本来の神礼拝は絶対にできないのです。神よ、主よ、と口では言っても、結局は、神の名をかたり、自分の欲求を満たすほかに考えることはないのです。こうした罪の支配は、徹底的にそして完全に裁かれ滅ぼされるのでなければ、本当の神殿は立たないはずです。「宮清め」とはキリストの十字架の復活であり、「神殿」とは主の十字架と復活の栄光のお身体以外にはないのであります。

 

4.「聖霊の宮」としての神殿形成:「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」

最後に主イエスが問題にされたのは、人々の「信仰」です。まことの神殿がなければ礼拝することができないのと同じように、神を拝む人々の心の中に「真の信仰」が宿っていない限り、神の礼拝は成り立ちません。つまり主イエス・キリストの十字架と復活の栄光の身体としての「神殿」は立てられても、その神殿に招かれ導かれる人々の「信仰」が次に求めるられます。大事な点は、ひとりひとりの人格の中枢に、神を神とする信仰心が造られることにあります。聖書はこう告げます。「2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかしイエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」と、とても意味深長な表現になっています。深読みになりますが、ここには、肯定と否定の二つの側面が隠されているように思われます。まず否定の側面から申しますと、文字通り直接表現で「イエス御自身は彼らを信用されなかった」と記されるように、人間の心は全く信用できない、ということです。人間には、神を心から信じて神を正しく礼拝することは不可能である、それが人間の心の中にある本質である、という結論です。肯定的な側面を敢えて深読みしますと、一切書かれてはいないのですが、それは「聖霊」の恵みを待たなければならない、ということになるのではないでしょうか。主が共にがおられなければ、弟子たちは何もできない、主はそれを日常の生活からご存知でした。しかし主イエスは、十字架の後に復活して父のいまし給う天にお帰りにならなければなりません。残された弟子たちには、神を信じる信仰も、信仰にしたがって神を礼拝する場もありません。信仰がなければ礼拝は成立しないからです。そこで主イエスは、別の助け主、別の弁護者として「聖霊」をお遣わしになられます。その聖霊を受けて、自らのうちに聖霊を宿すことにより、人々ははじめて主イエスを正しく信仰告白する信仰が生まれ、キリストの栄光の身体における神殿礼拝が信仰において可能となります。つまり聖霊の恵みの賜物として、神を信じ神を知る信仰も、神を拝み神を礼拝する真の神殿も与えられることになります。聖霊の降臨と聖霊を宿すことなしに、信仰も生まれず、キリストの身体における永遠の神殿礼拝も実現しないのです。しかし反対に、聖霊を弟子たちは受けて彼らのうちに聖霊を宿すことで、信仰が生じて、キリストの身体を永遠の神殿とする礼拝が実現し、そこに、新しい神の契約共同体である教会が誕生するのです。

 

5.結語 全く新しい神殿建設と根源的な宗教改革のために

「宮清め」とは何であったか。一言で言えば、ユダヤ宗教の根本的宗教改革であり、新しい神の啓示を示唆する象徴的な出来事であった、ということになるのではないでしょうか。単に神殿礼拝をめぐる腐敗を糾弾して改善を図る、という点にとどまるのではなくて、神殿礼拝そのものを、神殿における犠牲祭儀による神の礼拝そのものを廃棄して、新しく神の恵みと憐れみよって立てられたキリストの身体という永遠の神殿で、真の神を初めて正しく礼拝することができるようになったのです。まさに「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」という新しい神殿礼拝の確立でした。ヨハネの福音は、まさにこの福音の中枢を貫くように、「宮清め」の出来事を配置したのです。

2021年6月6日「水をよい葡萄酒に変える」 磯部理一郎 牧師

2021.6. 6 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第1主日

ヨハネによる福音書講解説教1

説教「水をよい葡萄酒に変える」

聖書 イザヤ書62章1~5節

ヨハネによる福音書2章1~12節

 

「2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした

2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。

2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで

2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現されたそれで、弟子たちはイエスを信じた

2:12 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。」

 

 

初めに. 「奇跡」とは神の啓示の場であり、そこで神は私たちに語りかけられる

本日よりヨハネによる福音書の講解説教になります。本来ならば、一章から始める所ですが、教会暦を斟酌しまして、一章は12月に譲り、本日は2章から、読み始めたいと思います。主イエスが「カナの婚礼」において、水をよい葡萄酒に変えられた、という最初の「奇跡」の話です。聖書にはたくさんの奇跡の話が登場します。「奇跡」ということをめぐり、教会の内外には多くの議論があります。奇跡がよく分かる、奇跡は理解できる、という人は余りいないのではないかと思います。奇跡を信じて認める、ということには、正直に申し上げて、人間としての立場には大きな限界があります。奇跡について空想するありましても、実際問題としてはよく分からない、というのが現実でありましょう。

ただ、これはあくまでも私たち「人間の現実」或いは「限界」でありますが、しかしそうした人間の立場とは異なって、人間の側の事情と全くかけ離れた所から、つまり神からの働きかけという点から申しますと、「奇跡」とは、この世の「時」と「場」を選び、その選びの時と場の中に、神がご自身の働きかけを現わされるのであります。聖書は、証言者を通して、神が「神の啓示」を伝える神の言葉であり、人間には隠されている神の秘められたご計画を伝える、文字通り神が語りかける「神のことば」である、と教会は考えます。言い換えれば、教会とは、神のことばである聖書のことばを通して、呼びかけられ、集められ、立てられた、神のことばによって召し集められた神の民の共同体である、ということになります。聖書は、神の御子であり人類の救世主であるキリストを啓示する書物ですが、特にその「奇跡」としてしか考えようのない不思議な出来事は、人間の能力を遥かに超えていて、いつも理解できないまま、問いはは残りますが、それでも神は、人間を救いに導くために、聖書を通して語りかけ、その語りかけから、私たちの人生の新しい扉を開き、神なき暗闇と滅びの世界から神による新しい命溢れる世界へと招こうと語りかけるのです。この世の常識ではとても説明できないのですが、聖書という神の啓示の言葉を通して、また不思議な奇跡を通して、神は私たち人類に常に語りかけ、新しい希望や真理に導こうとなさるのです。実際に「みことば」に導かれた私たちの生活の本質は、地上を超えて、文字通り「天を生きる」かのように、大きく変えられてゆくのです。それはまさに「神の奇跡」によって引き起こされ、神の奇跡の中で生きる現実であります。不思議な表現ですが、キリストの十字架と復活の信仰に生きる、ということは、まさにそれ自体が、大きな神の奇跡の中に生かされていることになります。世界万物は、明らかに、キリストという神のみわざに包まれ、飲み込まれ、そして復活の栄光勝利をめざしていると言い切ってよいのではないでしょうか。

使徒パウロはこうしたキリストによる万物救済を神の隠されたご計画と呼びました。「Eph 3:9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています(kai. fwti,sai Îpa,ntajÐ ti,j h` oivkonomi,a tou/ musthri,ou tou/ avpokekrumme,nou avpo. tw/n aivw,nwn evn tw/| qew/| tw/| ta. pa,nta kti,santi)。」(エフェソ3:9)と述べていますように、そうした神の隠され秘められていた神秘のご計画を「ミュステリオン」と呼んだのです。口語聖書は「奥義」、新共同訳聖書は「隠された神のご計画」と訳しています。英語聖書で皆はそのままmysteryとしていま す。世にある私たちには隠され秘められてはいますが、明らかに神ご自身から示された神のみわざであり、人類救済のご計画があるのです。大切なことは、この神の啓示である聖書の言葉に、心を開くことができるようになる、そして聖書の言葉の中に、神の臨在と神の主権を認めることができるようになる、ということにあります。聖礼典と訳される洗礼や聖餐のサクラメントのギリシャ語源もまた「ミュステリオン」です。東方ギリシャ正教会は「機密」と呼びます。まさに神の秘められた救いのご計画そのものが、私たちのための力強い現実となって、実現する時であり場、それが洗礼であり聖餐であります。

礼拝で聖書が朗読される際に、聖書の解き明かしに「聖霊の働き」を求める「イルミネーション」と呼ばれる祈りがささげられます。信仰の心が開かれて、聖霊が真理へと導いてくださるように、と祈る祈りです。皆さんもよくご存知の通り、長老教会の礼拝ではとても大切な祈りです。聖書の啓示を正しく信じ受け入れて、しかも忠実に聞き従うには、どうしても人間の力だけでは限界があって、不可能なので、教会では直接「聖霊の助け」を求めるのです。そうでなければ、みことばはいくら聞いても理解することができないのです。それを一番よく知っているのが、教会であります。聖書はそのままでは分からない読み物であることは、教会が一番よく知っているのです。だからこそ、分かるように、聖霊がお助けくださいと祈るのです。みことばを信仰により正しく知るようになる、ということは、とても大事なことですが、神さまのご計画や御心を知ることは、容易いことではありません。なぜなら、神さまの愛や御心は、私たち人間が予想する以上に、遥かに大きく豊かで永遠を包んでいるからです。カルヴァンが言う通り、有限は無限を包むことはできないのです。言わば、神は、無限大の大きさをもって、力ある恵みのみわざによって私たちに臨んでおられますが、有限で狭い私たちの知恵からすれば、どれもこれも理解しがたい「奇跡」のように見えてくるはずです。「神の啓示」という意味で、聖書のみことばに私たちが向き合うとき、最も重要なことは、神がわたしに愛と慈しみをもって語りかけておられる、という神への信頼です。神は、わたしのために、愛と憐れみからご自身のみわざをお示しになろうとしておられるのです。

 

1.「わたしの時はまだ来ていません」―十字架の栄光の時はまだ早い―

早速、そうした思いでヨハネによる福音書に入ります。「2:1 三日目に、ガリラヤのカナ婚礼があって、イエスの母がそこにいた。」と記されています。場所は「ガリラヤのカナ」となっていますが、今となっては、この場所を厳密に特定することは不可能のようです。ガリラヤ湖の西側湖畔から地中海側のある高地で、ナザレの町の北にあったようです。主イエスの母マリアがその婚礼の祝宴の手伝いをすることになっており、主イエスも弟子たちと共に招かれていたようです。おそらく弟子のヨハネもそこに同伴したと思われます。「2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」。困ったことに、婚宴の最中に祝いの葡萄酒がなくなってしまったようです。ユダヤの婚礼は、花婿と花嫁は宴席の中央に座して祝いを受け、祝いの酒をもって客をもてなします。一説によると、婚儀は一日中続くどころか、さらに新居に新婚夫婦が帰り着いてから七日間も続く、と言われます。結婚の祝宴は人生最大の喜びのイヴェントでありました。ところが、その祝宴の絶頂を迎える前に、婚宴の肝心要の葡萄酒がない、というわけです。そこで世話するマリアは、わが子でありまた力あるわざを行えるはずの主イエスに援助を求めて、「ぶどう酒がなくなりました」と言って、主イエスに葡萄酒の補いを命じます。こうした慌てず動じないマリアの態度は頼もしい限りです。マリア自身も葡萄酒は必ず満たされると確信に満ちており、主イエスに対する強い信頼に溢れています。花婿花嫁をはじめ婚宴を司る責任者は、どれほどマリアを頼もしく覚えたか、想像に難くない場面です。

ところが、主イエスは意外な対応を示します。「2:4 イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですわたしの時はまだ来ていません』」。一見、違和感を覚える対応です。気まずい場面です。主イエスが背負っておいでのお立場を考えますと、この対応の真実な意味が見えて来そうです。主イエスのお立場には、二つの立場があります。一つは、処女マリアから肉を受け継いだ「肉の子」として、まさにヨセフとマリアの家族としての主イエスです。まさにマリアは主の母であり、主は真理あの息子です。しかし主イエスのもう一つの本質は、「神の御子」であり、「神のメシア」として天から地上に遣わされたお方です。一方では母マリアのために従順に働き仕えるべき長男であり、他方では神の子メシアとして十字架に向かう神の生贄です。先ほどの4節のみことばはで、主イエスご自身の語られたみことばには、この主イエスにおける永遠の神の御子である「神の本性」と、そしてマリアの肉を受けた真の「人間の本性」という神と人との二重の本性を予測させる所です。主イエスは、どちらかと言えば、その神のメシアであること、そして十字架の犠牲における「栄光の時」について仰せになられたと思われます。神の御子という性質からすれば、「何のかかわりがあるか」と言われますように、罪人であるマリアと主イエスは、本性上本質的に無縁であり異質す。しかも「わたしの時はまだ来ていません」と言われた通り、父なる神によるご命令の時、すなわち十字架と復活の栄光の時をまだ迎えてはいないのです。まだ、完全な意味で神の栄光が実現する決定的な時を迎えてはいないのです。そういうキリストの十字架と復活による栄光の時という点から見れば、この婚礼での奇跡は、直接の救いのみわざではない、つまり本質的なキリストの時を示す奇跡ではなく、どちらかと言えば、メシアの到来の予兆を示す「しるし」であり「象徴」として理解することができるでありましょう。しかしそれでも実に興味深いのは、主イエスのそうした対応にも関わらず、母マリアの不動の確信です。全く動じることなく、2:5 しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」と聖書は記しています。まさに主イエスの力を信頼して、自分の責務を果たそうと働き続けます。

 

2.「水がめに水をいっぱい入れなさい」―律法の成就とキリストの恵み―

確かに、まだ、主イエスの本当の意味での「時」ではないのですが、しかし、主イエスは、ついに、母マリアの要請に応えるように、動き出します。「2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。2:7 イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。2:8 イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。」と記される通りです。これらの聖書の表現にはいくつかの象徴的な表現が含まれています。まず「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」とは、ユダヤの律法に規定されたことで、食事の前後最中も常に、肘下から指先まで水をかけて手を洗い浄めますので、多くの人々が集う宴会となると、とても大量の水が必要でした。その必要とした水の量については、聖書では「メトレテス」という単位で表記されていますが、聖書巻末の度量衡表にもありますように、1メトレテスは約39リットルとありますから、合わせますと、100リットル前後になります。50人いれば2リットルになり大きなペットボトル一本に相当します。これだけの水をさらに用意するとなると、とても大きな労働となります。そのため大きな「水がめ」が「六つ」用意されていました。数字の「6」は、7や8のように完全数ではなくて、未完であり不完全で完了できないことを意味する数字です。それは、どれほど大きな水がめに水を用意しても、また律法に忠実に洗い清めても、永遠に「聖」とされることはない、結局は律法の定めを満たすことはできないことを暗示します。つまり、人々がどれほど律法に忠実にしたがい、自らを洗い清めようとしたとしても、永遠に清められることのない汚れが残るのであります。「水がめに水をいっぱい入れなさい」と仰せになられた主イエスの指示は、律法を完全に満たし、律法を今ここで成就してみせよう、という宣言ではなかったか、とさえ思えます。主イエスは、清めても清めて律法を完全に満たすことができず、破れ果てているユダヤの民のために、ここで律法を完全に満たし成就してみせる、そうした象徴的な預言をなさっておられるのではないでしょうか。数多くの動物が贖罪の犠牲となって毎日のように屠られ、尽きることなくその血が神殿に流され続けています。いつもでそんなことを続けるのでしょうか。永遠に動物の血を流し続けても、決して律法を満たすことはできないのに、であります。完全に召使たちは、主イエスのご指示にしたがって、かめの縁までいっぱいになるように大量の水を入れました。

さて、ここで、改めて考えてみますと、水がめに用意されていた水と比べると、余りにも清めに用いる水の量は大量なのに、婚宴のための祝い酒である葡萄酒は、余りにも早くなくなっていました。祝宴が始まったかと思うと、「2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」と聖書は記していました。これはどういうことなのでしょうか。用意された清めの水100リットルの割には、祝いの酒は余りに少なすぎるのではないでしょうか。これは想像ですが、もしかしたら、最初から葡萄酒は非常に限られていたのかも知れません。とすれば、この婚宴は決して豊かな結婚ではなかったと考えられます。一生に一度の婚宴に葡萄酒さえ用意できない、貧しい家庭であったのではないか、と予想されます。律法にしたがって清めのための水は用意できても、本当の婚宴の祝うための、本当の葡萄酒は用意することはできなかったのです。一生涯の婚宴も、祝いたくても祝い切れなかった花婿と花嫁であったのかも知れません。律法を完全に満たしその義務と責任を完全に果たし、ユダヤの民の本当の祝福となる葡萄酒はなかったのです。

ユダヤの結婚式は、神のご支配もとに厳粛な祈りと誓いをもって、行われます。神によって選ばれた民として、神の契約共同体における一家となり、家庭をつくることになるからです。言わば、家族は特にその当主は神の契約全体を背負う家族なのです。そこには律法の遵守があり、神の選びの祝福に相応しい清き聖なる民であることは徹底されなければなりませんでした。しかしその中核をなす神の祝福を共に喜ぶための祝い酒は、この家庭には残っておらず、なかったのです。重要な点は、ただ人間同士が喜び祝う酒である以上に、葡萄酒は神の祝福そのものを意味したことです。そこに、キリストが現れ、清めの水がめを縁までいっぱいに満たして、ついに最もよい葡萄酒に変えるのです。

 

3.「このぶどう主がどこから来たのか」―みことばを聴き従い、みことばに仕える者―

主イエスに命じられた召使たちは、世話役のもとに、その水がめの水をもって行きました。「2:9 世話役はぶどう酒に変わった水味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10 言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」と言って、婚宴の主役である神の祝福を象徴するよい葡萄酒を味わいました。ここにもいくつかの象徴表現を見ることができます。まず世話役とは、婚宴全体を取り仕切る長です。少々大げさに言えば、婚宴が婚宴として成立させる権威者でもあります。ここが崩れれば、婚宴それ自体は破壊解体します。その世話役が吟味した結果、よい葡萄酒であった、というわけです。ユダヤの民と神との豊かな契約である婚宴は、最高の祝福となり祝いとなったのです。さらに世話役は、このよい葡萄酒が、すなわち神の本当の恵み豊かな祝福は、果たしてどこから来たのか、知らないのです。知っていたのは、主のみ言葉の指示通りに、水を汲んで主のみことばに仕えた召使だけでした。

冒頭で、聖書は神の啓示のことばなので、聖書を読み解くことは非常に難しい、ということについて触れました。また「奇跡」をどう理解するか、それも難しいことです。婚宴全体を取り仕切る権威者であった世話役さえ、葡萄酒の出来(しゅったい)については、知ることができませんでした。しかし意味深いのは、その反対に、主イエスの指示された「みことば」一つ一つに労苦して、忠実に主のみことばに仕えて、100リットルを超える水を汲みにゆき、それを運んで来た召使たちは皆だれもが、主イエスによる奇跡のみわざによることを知っていました。その奇跡が誰に依る奇跡であり、どのようにして行われたのか、その誰もがその真相を知っていて、誰も疑うことはありませんでした。なぜなら最初から最後まで、水がめの首の縁いっぱいまで全て水にすぎないことは、召使の誰もが知ってることであり、それがよい葡萄酒に変わったことも、一部始終を見ていたのは、この人々であったからです。あたかも、清めのために水がめの縁までいっぱいに満たされた水が、完全に主イエスのご支配のもとにおかれ、主イエスによる新しい恵みのみわざとなって変えられていくように、よい葡萄酒に変わるのを体験したのです。律法に対する、そしていつまでも清められないまま破綻する罪に対して、主イエスはここで、完全に勝利するというもう一つの祝い酒、言わばユダヤの民の「救い」のための祝い酒となって展開します。

実はここに「認識」における大きな質的な転換が生じているのではないでしょうか。召使も世話役も婚宴の客も皆、日常の常識という世界で生き暮らしています。しかしそこに、キリストが婚宴に現れることで、通常の常識的な生活の中に、大きな空洞のような穴が開いて、「奇跡」と言う以外に言いようのない「新しい神の世界」が突入したのです。キリストと出会い、キリストのことばを聞き、キリストの指示に従い、キリストのみことばに仕えることで、生きる場、暮らす場に変容が生じ、神のわざと生き生きと関わる世界が突入して、生活の次元は大きく変質します。ちょうど、「水」が「葡萄酒」に変わるように、生活の質と生きる世界の本質が大きく変わるのです。どれほど大量に清めの水を用いて洗い流しても、決して洗い清めることのできない罪と律法の限界の中で、つまり日常過ごす生活は水のように腐り果て渇き果てます。しかし婚宴にキリストが加わり、そこでみことばが語られ、主のみ言葉のもとで、召使のように忠実に仕える者たちが働き始めると、その腐り果てるばかりの水はすべて、余すところなく完全に贖われ、清められ、神の裁きは永遠の豊かな命の祝福へと変わり、祝福と勝利の祝いの酒と変わったのであります。まさに日常の、何も変わることのない常識的な婚宴は、キリストを迎えることで、神の新しい祝福に溢れた婚宴の場に変えられたのです。

 

4.信じて待ち望む信仰生活の意義と喜び

ただ一つ、やはり大きな問題がここには残されています。母マリアと主イエスとの対話の中に見られた、あのズレです。「2:4 イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですわたしの時はまだ来ていません。』」という主イエスのみことばです。主イエスと母マリアとの間にある埋めがたい溝であり、違いであり、距離です。神と人間との間にある大きな隔たりと言うべきでありましょうか。この言葉の背景に、母マリアの「人間性」を読み取ることができます。厳密に言えば、「神の時」即ち「キリストの栄光の時」を正しくそして深く認識することにおける、人間の限界です。そこには、マリアの人間としての感情や、人間としての欠乏と暗闇が潜んでいます。完全回復に至らない人間性ゆえに、どうしても生じる神からの離反であり、距離であり、欠乏であり、陰であります。しかし神の御子である主イエス・キリストにおいては、そうした神と人との間に広がる「隔たり」は全く存在しません。キリストにおける神と人間との関係は、その両本性は完全に「一体」であります。しかし私たち人間と神との間には、いつも、未完成のまま残されてしまう「隔たり」があります。主イエスのみことばによれば、終末における主イエスの再臨を含めて「わたしの時」が来るまでは、本当の意味で世の一体の関係は完成しない、ということになるのでしょうか。「わたしの時はまだ来ていない」と仰せになった主のみことばは、そうしたことに含意するばかりか、またそれを暗示するみことばではないか、と考えられます。

こうした神と人との間にある隔たりと離反の中で、すなわち未完成の救いの中で、私たちに果たして何ができるのでしょうか。それは言うまでもなく、「わたしの時」を堅く信じて、心から待ち望む、ということに尽きるのではないでしょうか。「わたしの時」とは、キリストが十字架において栄光のわざを成し遂げて、父のもとにおかえりになる時であり、「14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎えるこうしてわたしのいる所にあなたがたもいることになる。」とお約束くださった、その時であります。神と主イエスを信じて、待ち望むのです。そしてその時を信じて、待ち望むために、主イエスは、別の助け主である「聖霊」を送り、「みことば」を与えられたのです。言い換えれば、聖霊の働きのもと、天国における完成まで説教と聖餐において守られ導かれる教会生活をお与えくださったのであります。

ここに改めて信仰生活を重ねることの意義を、信仰生活が与えられた恵みを見出すことができます。信じて、待ち望む生活の中で、確かに私たちの魂も肉体も、人間性のすべてが、キリストの身体へと造り変えられてゆく恵みを日々体験し生きる喜びがそこにはあるからです。耐え忍び待つことは、決して苦しく疎ましいことではないのです。それどころか、いよいよ神の愛をこの身にしみじみと感じる場であり、たとえ苦悩の中にあろうと、その苦悩するただ中で、キリストとその愛と命を分かち合い共に耐え忍び、慰められ、励まされるという極めて貴重なそして恵み豊かな「神と共に生きる」生活を生きるからです。この世にあって、今ここに残された人生を生きるうえで、日々、この信じて待ち望むという信仰による生活の意義を、いよいよ深くいたしてまいりたいと存じます